~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (3-02)
六月の下旬に入ると、豪雨が幾晩か続いた。昼間は曇り空が拡がっているだけで雨は落ちなかったが、夜になると、決まって車軸を流すような烈しい雨が、湖面をも、湖畔の山野をもたたいた。
そして烈しい雨があがって、久しぶりで青空が顔をのぞかせた日、吉野の挙兵が伝えられた。大海人皇子は既に吉野を出、途中兵を集めて近江を目指しているというのである。今度は単なる噂ではなかった。伝令の騎馬武者は次々に都に入って来た。王宮内ははちの巣をつついたようになり、その日一日、戦線へ向かう武将たちの出入りが目立った。武将たちはみな武具をつけており、その挙措動作は荒々しく、時折、朝臣たちとの間に烈しい口論が行われるのが見られた。
この日、吉野挙兵を噂を耳にして間もなく、額田は十市皇女に会うために、その館におもむいて行った。湖面を一望のもとに見渡される広間の一隅に、十市皇女は席をとっていた。そして、傍に大友皇子との間にもうけた葛野王かどどのおおきみが侍女の手に抱かれていた。十市皇女は侍女と葛野王を別室に移らせると、
「ようこそ」
と、額田の方に会釈した。そして、湖の方へ顔を向け、額田が話し出すのを待っていると言った静かな表情であった。額田は自分のむすめである十市皇女がこの時のように美しく落ち着いて見えたことはなかった。
「このたびのこと、御存じでございましょうか」
額田は言った。
「存じております」
十市皇女は言って、
「ゆうべ既に高市皇子さまはこの近江の都をお出になりました」
「額田には、その言葉の意味がすぐには理解出来なかった。
「都をお出になったということは?」
「吉野に赴いて、父皇子さまのお手ともなり、お足ともなるつもりでございましょう」
額田は黙っていた。高市皇子としては、なるほど、このようなことになったら、自分の父である大海人皇子のもとに走るのが当然であるかも知れなかった。誰も彼もそれぞれの立場になって、今度の合戦にかう姿勢は異なっていた。
「夕べこの館をお脱け出しになる時、お別れに来て下さいました。わたくしも大海人皇子さまの女でございますが、わたくしは父皇子さまをおたすけ出来ない立場にある。どうぞ、わたくしの分までお働きになるように、── そう申し上げました。合戦は吉野方の敗亡に終わるという見方をなさっておられました。わたくしもそう思います。いくら兵を挙げても、父皇子さまのお集めになれる兵力は知れたものでございましょう。高市皇子さまは父皇子さまの御馬前に死ぬためにいらしたのです」
額田はこんどもまた黙っていた。十市皇女の一語一語が額を打って来るのが感じられた。十市皇女は高市皇子とこのような別れ方をしなければならぬ自分の立場を悲しみ、それを多少の恨みを込めて額田に訴えているに違いなかった。口には出さなかったが、十市皇女は言いたいに違いなかった。
── 母であるあなたが大友皇子さまの妃となるようにおっしゃったので、わたくしはそのようにいたしました。でも、本当は高市皇子さまのことを忘れることが出来ないのです。母であるあなやにぜっぶ責任があるとは申しませんが、しかし、あなたの言葉ですべては決まってしまったのです。── その高市皇子さまとも、もうお別れしてしまいました。あんなにわたしのことを思って下さった高市皇子さまと再びお会いすることは出来ないのです。
額田は湖の方に視線を投げた。幾夜か続いた豪雨のために、湖面はまだ波立っていて、白い波頭があちこちで砕けている。額田は口を開いた。
「大友皇子さまの妃であることをお忘れにならぬように、── こう伝えてもらいたいと、吉野にお入りになる時、父皇子さまは仰せになりました」
額田は言った。
「承知しております。でも、わたくしがついておりませんでも、大友皇子さまはお勝ちになりましょう」
十市皇女は言った。聞き捨てならぬ言葉であった。夫たる大友皇子は勝つに違いないから、自分はここに留まっている必要はない。それより高市皇子さまと同じように、父の大海人皇子のもとに走り、そこで父皇子や高市皇子と運命を共にしたい。── 何となくそんなことでも言っているように聞こえた。
額田は急にひとりになって考えなければならぬkとがあるような思いに襲われた。考えなけれなならぬことは、この日の湖面の波のように、あとからあとから押し寄せて来ている。
2021/07/04
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