~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (3-03)
額田は十市皇女の許を辞した。十市皇女の部屋だけが静かで、一歩外に出ると混乱は王宮の隅から隅までを埋めていた。額田は己が部屋に戻ると、長い間一人になっていた。額田は十市皇女とは異なって、吉野方の方が敗れるとはどうしても思えなかった。兵事にかけては何の知識も持っていないので、合戦の勝敗についてはいかなる見透みとおしも出来なかったが、しかし、どうしても吉野方が敗れようとは思われなかった。敗れるならむしろ、吉野挙兵を聞いただけで、おまこの混乱に襲われている近江朝廷の方ではないか、なんとなくそういう気持がしてならなかった。大友皇子と大海人皇子を較べただけで、既に勝敗ははききりしているように思われる。
額田は近江朝廷が敗れるのではないかと思った時、不思議な事だが心にある落ち着きを覚えた。いかなる運命が見舞って来ようと、天智天皇がお造りになった都から離れることは出来ないし、天智天皇がお住まいになった王宮から離れることも出来ない。それからまた、天智天皇があれほどお心にかけられた大友皇子のおそばから離れることも出来ないのである。
額田はたとえ女官たちが立ち退きを命じれれても、自分だけはここに踏み留まっていなければならぬと思った。こうした己の進退が決まってしまうと、改めてもう一度、十市皇女のことが頭に浮かんで来た。ああ、十市皇女だけは、どうにかして彼女の思うようにさせてやりたいと思った。母としての額田の気持であった。
なるほど十市皇女は大友皇子の妃であった。そして皇子との間には葛野王までもうけている。ふいに額田は蒼白そうはくになった。ここに留まっている限り、十市皇女の持つ運命は、はっきりしていた。もし近江朝廷が亡びる場合、近江朝廷にじゅんじなけらばならぬのでる。
額田は思った。十市皇女にとっては、父皇子と夫皇子との間の闘いであった。十市皇女がどう思おうと、額田がどう思おうと、勝敗の帰趨きすうは全く判らないのである。いま十市皇女は、吉野方が敗れるという判断の上に立って、その上で父皇子と高市皇子とに殉じたいと望んでいるのである。額田は血の気を失った顔で同じことを繰り返し、繰り返し考えていた。どこにも出口のない苦しい思いであった。
近江朝廷が混乱を極めながら、吉野挙兵に対して兵を動かそうとしていた時、大海人皇子は雷光のような進軍を続けていたのである。吉野を出陣した時は、わずか二十人ほどの舎人とねりがつき したっているだけで軍勢とは言えないものであった。舎人のほかに鸕野皇女と女子供たちだけである。それが行くさきざきで徐々にふくれ上がり、神がのり移ったような神速果敢
な兵団と化しつつあった。後年、人麻呂ひとまろは歌っている。
ととのふる 鼓の音は
いかづちの 音と聞くまで
吹きなせる 小角くだの音も
敵見たる 虎かほゆると
もろ人の おびゆるまでに
ささげたる 旗のなびきは
冬ごもり 春さり来れば・・・
まさにこのような進撃であったのである。
2021/07/04
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