~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (3-04)
吉野挙兵が伝えられた翌日の夜になって、初めて高市皇子が館を脱け出して吉野方にせ参じたことが大きな騒ぎになり、皇子につき随った朝臣たちの顔振れも判明した。民大火たみのおおひ赤染徳足あかそめのとこたり大蔵広隅おおくらのひろすみ坂上国麻呂さかのうえのくにまろ古市黒麻呂ふるいちのくろまろ竹田大徳たけだのだいとく膽香瓦阿倍いかごのあべといった人たちであった。そうした脱出組をあしざまに言う者もあったが、それを耳にして、何の反応も示さない者もあった。反応を示さない連中は、混乱の中にいかなる判断も下せなくなっているか、あるいは自分もそうすべきではなかったかと考えている連中であった。しかし、いかなる考えを持とうと、今となっては、近江の宮に留まる以外仕方ない運命が、この王宮に居る人たちを取り巻いていた。
混乱の中に三日目を迎えた。飛鳥の旧都の留守のつかさであった高坂王たかさかのおおきみからの伝令が、この頃になって都に入って来た。いかに大和やまとから近江に到る一帯の地が、吉野挙兵によって混乱を極め、動揺しているかがわかるというものであった。農民たちは山に逃げ込んだり、家財をどこかに運んだりすることに忙しく、その間を兵とも賊とも判らぬ集団が西に東に動いているということであった。高坂王の使者はそうした地帯を通過するのに二日二晩を要していたのである。
この日は高坂王の使者の他に、各地方からの伝令が都に入ってっ来た。なかには途中の駅家駅家がかれていると伝える者もあった。王宮内の朝臣たちは、そうした報告に息をひそめ固唾かたずをのみこみ、つまらぬことに一喜一憂した。
その翌日になると、鈴鹿すずかの山道がすでに吉野方の兵によって押さえられてしまったという報告が入った。国司の三宅石床みやけのいわとこ等が吉野方の陣営に加わったとみるほかなかった。この報告は、王宮内に居る者尽くを愕然がくぜんとさせた。誰もが鈴鹿の山道まで攻撃軍が迫っているという思いを持った。これに続いて、今度は美濃の兵たちによって不破の口がふさがれたというしらせが入り、それと前後して、伊賀の国司も、伊勢の国司も兵を率いて吉野方の陣営に加わる情勢にあるという報告があった。
そうしている時、幼い大津皇子が吉野方に加わるために、いつの間にか都を出たらしいという噂が立った。うわさが立って初めて判ったことであるが、王宮の中にも、館にも、大津皇子の姿は見出せなかった。そしてその夜になってから、大津皇子の脱出は昨日のうちのことであり、まだ十歳の少年皇子である大津皇子を奉じたのは大分恵尺おおきだのえさか難波三綱なにわのみつな山辺安麻呂やまべのやすまろ小墾田猪手おはりだのいてといった面々で、そのほかかなり大勢の朝臣、武臣たちが大津皇子と行を共にしたということであった。いずれも今度の事ある以前から、大海人皇子と親しかった人たちで、このような挙に出ることは当然であると言えば当然な事であった。
その翌日あたりから、王宮内の混乱は、濁った水が澄んでいくように、次第に収まって行った。
近江朝廷から離れてゆく者はみんな離れて行ってしまい、あとには近江の都と運命を共にしようといった人々だけが残っていた。と言って、自分から望んでそういう態度をとった者ばかりとも言えなかった。初めは大友皇子と大海人皇子とを較べて、いずれの陣営に加わるべきか、その帰趨きすうに迷った者たちも多かったが、何となく進退を決めかねているうちに、運命は彼等をこの湖畔の王宮に閉じ込めてしまったのである。
これまでは、大津皇子の場合のように脱出しようとすれば脱出の機会がないわけではなかったのでえあるが、今となっては、もうその機会は取り上げられてしまっていた。好むと好まないにかかわらず、吉野方と闘う以外仕方がなかったのである。
2021/07/05
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