~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (3-05)
近江朝廷では毎日のように軍議の評定ひょうじょうが開かれていた。しかし、何となく後手ごてに後手にと廻るといった格好かっこうで、事はことごとく志と反した。東国にも、兵を起すための使者が派せられていたが、誰が考えても、時期すでに遅しとしなければならなかった。東国に向かった忍坂大麻呂おしさかのおおまろ書薬ふみのくすり等は不破の山中で敵軍に捕らえられ、同じように東国に向かおうとしていた韋邦磐鋤いなのいわすきは、どうにか捕らえられることだけは免れたが、ほうほうのていで都に逃げ返って来なければならなかった。
それから近江朝にとって大きい打撃だったのは、尾張おわり国司小子部鉏鉤ちいさこべのさひちが二万の軍勢を率いて、近江に入るという報告があり、その来着を一日遅しと待ち構えていたのであるが、いつまで経っても、そのような気配はなかった。そして、それどころか、そてに代わって意外な消息が伝えられて来た。それは尾張の兵たちが吉野方の一翼として、戦線の要所要所に配されているということであった。
こうして吉野挙兵からいつか十日余りの日が経っていた。近江朝廷の人々には、朝が来て、すぐ夜になってしまう一日の時間の経つ早さが信じられなかった。一日一日はあっという間に過ぎて行った。
慌しく月は変わった。毎日のようにぎらぎらした夏のが湖面をめ、夕方になると白いうろこ雲が空をおおった。湖上を渡って来る風には、すでに秋の気が込められてあったが、誰もそうしたことには気付かなかった。
近江の朝廷も、この間、毎日のように混乱を重ねていたわけではなかった。攻勢に出るべきを守勢に立たされてしまったというところはあったが、大軍は近江の都周辺に集められていた。
吉野方の兵力に較べると、まだはるかに近江方の兵力の方が強大であった。ただ近江一帯の地が三方から吉野方の軍勢に大きく囲まれてしまっていることが、作戦の上では不利であった。近江から他国へ出る要所要所はことごとく吉野方の軍勢の押さえる所となってしまっている。
戦機はようやく熟して、近江方の山部王やまべのおおきみ、蘇我果安等は数万の大軍を率いて不破に向かうべく都を出て行った。また壱岐韓国いきのからくに田部小隅たなべのおすみ等もそれぞれ兵団を率いて、吉野方が布陣している近江周辺の地に向かった。
近江方にとっては最初の作戦だった。兵力から考えて、よもや不利な立場に立つことがあろうとは思われなかった。しかし、何日たっても、捷報しょうほうは都に入って来なかった。そして次々に伝えられて来るのは、武将たちの討死の報せであった。境部薬さかいべのくすり秦友足はたのともたりといった頼みにしていた武将たちも還らず、山部王も死に、蘇我果安も死んだ。山部王と果安の死は討死ではなかった。いかなる理由でそのようなことになったかは判らなかったが、事もあろうに山部王は果安に斬られ、それによって引き起こされた混乱と、打ち続く敗戦の果てに果安の方は自刃していた。
2021/07/06
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