~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (3-07)
やがて大友皇子が姿を現し、十市皇女の上手に就くと、
「合戦の勝敗というものは、人間には予測できない。天が知っているだけである。明日余は出陣する。勝敗はいっきに決まるだろう。勝てば大海人皇子の首級を頂戴ちょうだいする。負ければ余の首級が大海人皇子の陣営に運ばれることになるだろう。兵火は恐らく、この、王宮には及ばないだろう。城でもなければとりででみない。ここにたてこもる意味もないし、ここを焼く意味も考えられぬ。案ぜられるのは、混乱がここを見舞うことであるが、それを防ぐに足る兵たちはここに配しておく。兵火がしずまったら、人それぞれの立場で、幸運に見舞われる者もあろうし、悲運に見舞われる者もあろう。が、ここに居る者はことごとく、己を見舞う運命に従順であってもらいたい。自分の手で自分の運命をねじ曲げるような行為には出て貰いたくない。こんどの争乱には、ここに居る女人たちのだれ一人も責任は持っていない。余が言うことはこれだけである。この王宮内で、兵火鎮まるのを待って貰いたい。それも、もう長いことではない。旬日を経ずして、再び世は平穏になるだろう」
大友皇子はそれだけ言うと、すぐ席を立った。一座では誰も声を発する者はなかった。大友皇子が立つと、十市皇女が立って随った。妃として当然のことであったが、額田にはそうした十市皇女に姿が凛々りりしくも、また悲しくも見えた。
翌日、大友皇子は王宮を出、全軍を率いて、瀬田に向かった。朝臣も、武臣もことごとくの者が随った。瀬田に陣容を張って、吉野方の主力との対戦をいっきに決戦に持って行こうとする作戦であった。
王宮の女人たちは、出陣して行く大友皇子を王宮の門まで見送った。天智天皇の妃たちも、大海人皇子の妃たちも見送った。武具を身につけた大友皇子は、体格が大きいだけに、ひときわ目立って立派に見えた。
大友皇子を見送ってから、十市皇女はかたわらの額田女王に囁くように言った。
「皇子さまがきのう仰った言い方をまねると、いまわたしが何を考えているか、誰も知っておりません。わたし以外では天が知るだけ、いつか、きっと、わたしは天のとがめを受けましょう」
額田ははっとしたが、」それを耳に入れなかったように、ゆっくりと顔を仰向けた。一片の雲もなく、青く澄んだ空が海のように拡がっている。国を二つに割ったいつかの秋の気が忍び寄りつつあった。
2021/07/07
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