~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (3-09)
合戦から一ヶ月経った八月末になって、近江方の主だった者八人が斬られた。右大臣中臣金なかとみのかねを初め、いずれもこんどの事変に主導的役割を果した朝臣たちであった。右大臣蘇我赤兄、大納言巨勢比等こせのひとの刑は流刑であった。さぞ近江地方から大勢の斬罪者ざんざいしゃが出るものと一般には思われていたが、そうした予想に反して、事変による犠牲者は最小限度にくいとめられたのであった。
こうしたことが湖畔の王宮で、それぞれ己が居室に籠って、互いに顔を合わせることもなく過ごしている女人たちに伝わったのは、更に一ヶ月ほど経ってからであった。このため王宮内にはいささかの動揺も起こらなかった。打撃を受けたとすれば、蘇我赤兄を父に持つ二人の妃たちであったが、しかし斬罪でなく、流刑であったことで、彼女たちはむしろほっとしたのではなかったかと想像された。こうした蘇我赤兄に対する措置は、大海人皇子のその一族に対する配慮があってのことに思われた。
またこの事変に対する収拾は都の民にもいかなる動揺も与えなかった。国を二つに割った争乱は、ちまたの男女たちにすでに過ぎ去った悪夢であるに過ぎなかった。それより新しい現実が彼等を押し倒し、渦巻き流れていた。
大海人皇子が争乱の間本営を置いた不破ふわを発し、大和の岡本営に落ち着いたのは九月の中頃であった。そしてそれと一緒に、その岡本営の南に新しい宮造りの工は起こされていた。近江の都はすでに棄てられてしまっていたのである。争乱によって都から逃げ出した民たちは、戦火鎮まると、こんどは大和に引き移って行かねばならなかった。一度近江の都に戻り、その上で大和へ向かう者もあれば、避難先から直ちに大和へ移ってゆく者もあった。
戦乱で荒れに荒れた近江の都とその周辺の地は、そのまま打ち棄てられ、日一日、人々はそこから姿を消して行きつつあった。今や都は暴風雨のあった翌朝のなぎさに似ていた。水が引くように人々は居なくなり、あとには無人の家や館だけが取りちらかったままで残された。
十一月に入ると寒風が毎日のように人の居ない大路を吹き抜けて行き、白いものが舞い始めた頃から、浮浪者や夜盗が無人の家や館を住処すみどころとした。湖畔の王宮の女人たちは、都がいかなる変わり方をしているか、誰も知らなかった。彼女たちはすっかり忘れられてしまったように、そこに置かれていた。王宮は大勢の武人たちによって警固されていたが、大和からはいかなる沙汰もなかった。
十二月に入って、初めて王宮の門は開かれた。亡き天智天皇の妃たちと、皇子、皇女たち、それに付き随う侍女たちの一団が、それぞれ 輿こしに乗って、大和へ向かった。それから何日かを置いて、こんどは大海人皇子の妃たちの一団が、同じようにして、湖畔の王宮から出て行った。十市皇女もこの一団の中に配されていた。
更に何日かして、最後の輿の集団が王宮の門を出た。あとにはもう役人や兵がたむろしているだけで、湖畔の王宮は、すっかり無人の館になる筈であった。額田は最後にこの王宮を引き揚げて行く一団の中に入っていた。この前の二回の引き揚げの時は、天候に恵まれ、静かに冬陽ふゆびの散っている日に当たっていたが、この日は暁方から白いものが舞っている寒い日であった。雪はいったんんだが、輿の隊列が王宮の門を出る頃から、再び雪は落ち始めていた。こやみなく舞っている雪片の落ち方から見て、この冬初めての本格的な降雪になるのではないかと思われた。
額田は輿の垂をめくって、近江の都に別れを告げた。都大路はすでに荒れ、いかにも狐狸こりでもみそうな無人の辻々つじつじを刻一刻白く覆いつつあった。
額田にとっては、この湖畔の都と別れる今日という日は特別な日であった。この都を離れた瞬間から、もう額田は額田でなくなる筈であった。もう神の声も聞くことは出来ないし、その神の声を神に代わって詠うことも出来なかった。額田が長く身に付けて来た特殊なものは、亡き天智天皇が営まれたこの湖畔の都に置いて行かねばならなかったからである。
都を出て、湖岸の道を進みだした頃から、雪片は重たっぽくはだらはだらに暗灰色の空から落ち出した。雪にけむって湖面の眺望ちょうぼうかなかった。初めて中大兄皇子に召された日も雪の日であったが、丁度それと同じような雪の日に、額田は天皇の御霊みたまと別れて行くのであった。
2021/07/07
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