~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
エトランジェの死 (1-01)
その男が乗って来た時、誰も注意を向けなかった。世界各国から多種多様の人間が集まって来るその場所では、異邦人エトランジェの彼も、さほど目立つ存在ではなかった。
黒人ではあるが、肌の色は、ややうすい。褐色に近い肌をしている。髪は黒く、あまりちぢれていない。顔の造作もどちらかと言えば東洋人に近い感じである。黒人にしては、背は低いほうだ。年齢は二十代か。ひきしまった精悍せいかん体躯たいくをしているが、この季節にはまだ早いマキシ風のバーバリのコートで体形のほとんどを隠している。
どこか具合でも悪いのか、彼はひどく重そうな足取りで、エレベーターを待っていた一群の人々の最後尾から、搬機に乗り込んで来た。
このエレベーターは、建物の最上階にある「スカイダイニイング」への“急行”である。
四十二階、百五十メートルの高さをノンストップの場合二十八秒で上ってしまう。二十階まで直行し、それからは上り客のリクエストによって停める。
「ご利用階数をおしらせ願います」
「コール・ユア・フロア・プリーズ」
矢絣やがすりの和服を着た美しいエレベーターガールが日英両国語で客に呼びかけた。搬機ケージは音もなく垂直の空間を移動する。ゲージの床には毛足の長い絨毯じゅうたんが敷きつめられ、それがいっそうに周囲からの柔らかな隔絶感を促す。
すべてスカイダイニングへおもむく客ばかりと見えて、ケージはノンストップで上って行く。定員の約七割の客には、外人の姿の方が目立つ。みな無言で移動するインジゲーターサインを見守っている。いずれも金と暇に恵まれて、今宵こよいの豪華な食事を楽しみに来た人々のように見えた。ただ一人の例外を除いては。──
エレベーターは、ほとんど振動を客に伝えることなく、最上階に着いた。開いたゲージのドアの前で、タキシードとちょうネクタイに身をかためた食堂長が恭しく頭を下げた。
「お待たせいたしました。スカイダイニングでございます」
エレベータガールも優雅に告げて、客を送り出した。客たちは、豪華なダイニングルームのたたずまいに、それぞれポーズをつけてケージから降り立った。
この場所で食事をできる人間は、選ばれた者だけである。彼らが一食に費やす費用で、百人の飢えた人間を養えるだろう。だがそんなことを考える者はいなかった。ここで要求されることは、その食事に相応しい服装とマナーと、そして代金を賄える資力である。客が空腹であるかどうかは問題ではなかった。
食事が豪華であればあるほど、食事本来の目的から逸脱してくる。だが、人々はその矛盾にはほとんど気が付かない。
ケージは、空になった。いや一人だけ残っている者が居た。ケージの壁に寄りかかったまま下りようとしない。最後に乗り込んだバーバリコトの黒人である。目を閉じていた。
「お客様」
エレベーターガールが声をかけても、一向に動かない。立ったまま眠ってしまったのかと思かけたエレベーターガールが、どうもそうではない様子に気が付いた。今までは他の客のかげに隠れて判らなかったが、様子がおかしい。褐色の肌のために、よく顔色を読み取れないが、表情というものがまったくない。ポーカーフェイスの無表情とは違って、死相が貼りついたようなのだ。
この時人なって彼女は、その男がひどく場違いなのを悟った。羽織ったバーバリのコートは、あかで黒光りしている。そですそは、すり切れて、繊維の戦端がけば立っている。所々に泥のようなものがこびりついている。刈り上げた頭髪も埃まみれで、かさかさに乾いた皮膚に濃い不精ひげが目立つ。胸元をかばうようにコートの上から手で押さえている。
とても優雅な夕食を楽しみに来た恰好ではなかった。
── きっとまちがえて、乗り込んでしまったのだわ ──
種々雑多の人間の集まる所だから、どんな人間が紛れ込んでも不思議はない。この男も自分のまちがいに気がついたので、下へ戻ろうとしているのだろう。
エレベーターガールは、思いなおして、食堂前のロビーで待っている客に「下へまいります」と呼びかけようとした。
バーバリコートの男が動いたのは、その時である。男は背をケージの壁にもたせかけたまま、ずるずるとくずおれた。しりもちをつくような形でケージの床に尻を落とした男は、グラリと前かがみに上体を折った。
いきなり自分の足元へ倒れかかってこられたので、エレベーターガールは小さな悲鳴をあげて、飛び退いた。しかし、すぐ自分の職務に気がついて、「お客様、いかがなさいました」と声をかけて助け起こそうとした。この時点では彼女も、男が軽い貧血でもおこしたぐらいに考えていた。わずか二十八秒で百五十メートルも上ってしまうエレバーターでは、時々こういう症状を現す客が居たからである。
だが、彼女は職務を最後まで果せなかった。男を助け起こそうとしたはずみに、いままでコートによって隠されていた胸元が眼に入った。一瞬、赤い色彩が目の中で炸裂さくれつしたように感じた。同時にこれまで男が立っていた足元のベージュ色の絨毯が、赤黒く染色されていることに気がついた。エレベーターガールは、今度こそ抑制をかけない悲鳴を上げて、機内から飛び出した。
ロビーいた客が仰天した。食堂長やウエイターが飛んで来た。男はすでに死んでい。
ナイフが顎下あごした(柄の根元)まで胸に突き立てられていた。突き立ったナイフがふたの役目をしたために、あまり血も流れていない。どこで刺されたのかわからないが、男がここまでの行動能力を保存したのも、ナイフを引き抜かなかったからかも知れない。
大騒ぎになった。直ちに警察へ通報が為された。
2021/07/09
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