~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
エトランジェの死 (1-05)
結局、犯行動機、場所、犯人の推定等不明のまま、捜査は初期の段階で早くも難航の兆しを見せた。捜査本部では、被害者が外国人なので、アメリカ大使館に連絡を取ると同時に、被害者の住所に通報して遺族による遺体確認がすむまで、遺体を保存することにした。
捜査会議は紛糾した。最も争われた点は、犯行現場である。ホテル内部に固執する派と外部説を取る者が真っ向から対立した。
「医者を驚嘆させるほどの重傷を負いながら、外部から来られるはずがない。やはり内部でやられたと見るべきだ」と主張したのは、この捜査に投入された警視庁捜査第一課第四号取調室那須なす班の横渡よこわたり刑事である。猿のようなマスクをしているところから「猿渡」の別名がある。彼が「ホテル内現場説」を主張する最右翼であった。
「同じ部位に受傷して、相当の行動能力を残していた前例もあるそうです」
と、これに異論を唱えたのが、所轄署から捜査本部に参加している棟居むねすえという三十前後の精悍せいかんな顔つきの刑事だった。彼が外部説の急先鋒に立っている。
「そんな前例は、医学的な前例にすぎない。文献や学会に報告されたもので、現実性に乏しいよ」
「しかしホテル内部をあれだけ捜索しても見つけられなかったじゃありませんか」
「ホテル内部というのは、必ずしも館内に限られない。ロイヤルホテルには一万五千坪の庭園がある。あのどこかで襲われれば、多少の血痕が落ちていたとしても、地面に吸収されてしまうだろう」
「犯行時間帯には、まだ庭園にかなりの人が出ていました。ガーデンハウスではバーベキュウをやっているし、宴会に来た客が散歩もしていた。それらの目を潜っての犯行は・・・」
「必ずしも難しくないと思うよ。庭には森もあれば、竹林もある。人が出ていてもあの広大な庭園の隅から隅まで、人の目が光っていたわけではあるまい」
「ガイシャのコートに付いていた泥は、ホテルの庭のものではないということでした」
「だからといってホテル外部でやられたことにはならない。襲われる前に泥なんかいつどこでも付けられるよ」
「しかし・・・」
両派譲りことなく討論していると、那須警部が言葉をさしはさんだ。
「ガイシャは、なぜ最上階のレストランなどへ上ろうとしたんだろうば」
両派が虚を衝かれたようにな表情をして、那須に視線を集めた。これまでそのことについて論じられていなかったのである。
「なんだってあの男は、エレベーターに乗って、四十二階のレストランへ上ろうとしたんだろう? どうせ助からないとわかっていたら、どこで死んだっていいだろうに。そんな上の方のレストランへ行ったところで、もうメシを食えない体になっている」
那須の言葉はかなり乱暴な言い方であったが、これまで一同が見過ごしていた点を突いていた。死に臨んだ人間が、朦朧もうろうたる意識のまま、ただふらふらとスカイダイニング行きのエレベーターに紛れ込んだぐらいにしか考えていなかったのである。
「ガイシャは、ナイフを胸に突き立てられたままだった。目撃者の話によると、そこをかばうようにしていたそうだ。ふつう、人間が刺されて、意識が残っていれば、なず凶器を身体から引き抜こうとするだろう。それなのにガイシャはそれをせず、凶器を刺したままにしておいた。凶器を引き抜けば、そこから出血して死ぬということを知っていたんだ。死ぬ前にどこかへ行きたかったから、故意にそのままにしておいたのかも知れない。そして彼は、ロイヤルホテル四十二階のレストランへ上って来た。本来なら病院を探すべきなのに」
「必ずしもスカイダイニングへ行ったのではないと思います」
那須班の最若手、下田刑事が異議をさしはさんだ。みなの視線が彼の方へ転じた。
「ガイシャはエレベーターの中で死んでいました。乗り込んでから最上階に到達する間に、息絶えたものと思います。すると、途中階で下りるつもりだったのが、そう出来なくなったとは考えられませんか」
たまたま最上階へケージg着いた時に、死体となって発見されたので、いかにもそこを目指していたかのように見られたが、彼は途中階へ行こうとしていたのではないかと言うのである。いい意見だと言うように、一座にざわめきが起きた。那須がうなずいて、みなの発言をうながすように、見まわした。
「しかし、もしそうならエレベーターガールに下りる階を告げたはずだよ」
最古参の山路やまじ部長刑事が反駁はんばくした。鼻の下にいつも汗をかいている童顔の刑事である。
「すでに口もきけない常態に陥っていたのではないでしょうか?」
しかしそれについては、下田も確信がない。
「下田君の意見も。十分可能性がある。もしガイシャが途中階のどこかを目指して来たとすれば、あの日の宿泊客の誰かの所へ行こうとしたのだろう。当日の泊り客のすべてを洗う必要があるな」
那須が言った。
「あのエレベーターは急行で、二十階まではノンストップですから、二十階以上の客に限れませんか」
草場くさば刑事が聞いた。フランスの喜劇俳優フェルナンデルに似たとぼけた風貌ふうぼうの刑事である。
「いや、急行も鈍行も区別がつかなくなっていたと見るべきでしょう」
一見、「捜一」の刑事より、銀行員タイプの河西かさい刑事が、やんわりと言葉をさしはさんだ。
ホテル側から提出してもらった宿泊客ゲストリストによると、当夜の泊り客は、キャパシティの約七十パーセント、二千九百六十五名で、うち、団体が五百名ほどいる。内外人比率は、四対六で外人の方が多い。その中でもアメリカ人がその六十パーセントを占めている。これにイギリス人、フランス、ドイツ、スペインとつづく。ソ連や東方諸国の共産圏からの客もあった。まことに、人種の坩堝るつぼの観があった。
2021/07/12
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