~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
怨 恨 の 刻 印 (1-02)
その日、父はいつもより三十分ほど遅れて帰って来た。二月の末の最も寒い季節であった。父の姿を改札口に見つけた時は、棟居の小さな身体は凍えかけていた。
「また来ていたのか。あれほど来てはいけないと言っておいたのに」
父は、凍えた棟居の全身をしっかりと抱きしめてくれた。父の体も凍えていたが、その心のぬくもりが伝わって来るようだった。
「今日はな、すごいおみやげがあるんだぞ」
父は思わせぶりに言った。
「何だい、お父さん」
「これを開けてごらん」
父は、紙袋を棟居の手に握らせた。まだほのかな温かみが残っている。中を覗いた棟居は、思わず「わあ、すげえ」と嘆声を発した。
「どうだ、凄いだろう。そも饅頭には本物のんこが入ってるんだぞ」
「本当?」棟居は目をまるくした。
「本当だとも、それを闇市で買って来るために少し遅くなっちゃったんだ。さあ早く家へ帰って一緒に食べような」
父は、子の冷えた手を暖めるように握り締めて、歩きはじめた。
「お父さん、ありがとう」
「おとなしく待っていた褒美だ。けれど明日から迎えに来ちゃいけないよ。悪い人さらいがいるかも知れない」
父は棟居を優しくさと した。二人が家の方角へ向かいかけた時、その事件は起きたのだ。
駅前の広場の一角が騒がしくなった。得体の知れない食物を売る露店の店が立ち並んでいるあたりから騒然たる気配が伝わって来る。人々が駆け集まっている。若い女の悲鳴がして、
「たすけて! だれかたすけて」と救いを求める声がつづいた。
父は、棟居の手を引いて、その方角へ急いだ。人垣の間から覗いてみると、酔っぱらったGI(アメリカ兵)が、若い女にからんでいる。意味はわからぬながらも、万国共通の音感を持った野卑やひな言葉をき散らしながら、数人の若いGIが衆人環視の中で若い娘をなぶっているのだった。
見るからに強そうな米兵たちばかりだった。痩せ衰えた敗戦国民の日本人に比べて、栄養の行き届いた身体と、脂ぎった赤い皮膚からは、蓄えられた猥褻わいせつなエネルギーがはちきれんばかりである。
哀れな娘は、猫の群に取り囲まれた一匹の鼠のように、なぶり殺しにされようとしている。すでに衣服はむしり取られ、惨憺さんたんたるありさまになっていた。このままでは衆人の見守る中で犯されてしまう。いや、すでに犯されているも同然であった。
見ている方も、救おうとする気持よりは、はからずも面白い見せ物に際会した残酷な好奇心の方が先立っていた。かりに救おうとする気持があったところで、相手が進駐軍の兵士ではどうにもならない。
彼らは、戦勝国の軍隊として、日本のすべての上に君臨していた。世界に誇る日本軍を一兵残らず解体し、日本人にとって最高絶対の権力者であった天皇の神格を否定した。
つまり彼らは日本人の現人神あらひとがみのそのまた上にすわって、日本人を支配した。天皇を従属させた彼らが、当時の日本人にとって、新たな神となったのである。
警察も“神の軍隊”である進駐軍には手出し出来なかった。進駐軍にとって日本人など人間ではなかった。動物以下にしか見ていなかったから、このような 傍若無人のふるまいが出来たのである。
GIの人身御供にささげられた娘は、絶望的な状態に陥っていた。見ている者は誰も手を出さない。警官を呼びに行こうとする者もない。呼びに行ったところで、警官にもどうにもならないことを知っていたからである。
彼らにとらえられた娘の不運であった。
2021/07/15
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