~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
怨 恨 の 刻 印 (1-03)
その時父が、人垣をかき分けて進みだした。そしてあわや女を蹂躙じゅうりんしようとしていた兵士たちに、英語で何か言った。父は多少の英語を解した。
そんな勇気ある日本人がいようなどとは夢にも思っていなかったらしいGIたちは、一瞬びっくりしたように父に視線を集めた。取り巻いていた群衆もどうなることかと固唾かたずをのんで見守った。束の間、無気味な静寂が、その場にたむろした。
ちょっと気をがれたGIたちは、相手がいかにもひ弱気な眼鏡をかけた貧相な日本人一人と知って、たちまち威勢を取り戻した。
「ガッデム・イエロウモンキー」
「ダーティ・ジャップ」
「サノブアビッチ」
などと口々に叫びながら、父にむかってきた。父は必死に相手をなだめようとしていた。
だが、米兵は新たに現れた獲物にサディスティックな昂奮こうふんをかきたれられたらしく、寄ってたかった父をさいなみはじめた。凶暴な獣が、栄養不良の獲物をなぶり殺しにするようなものであった。米兵たちは、抵抗と反撃のまったくない相手を苛む残酷な喜悦に酔い痴れていた。
めろ、お父さんに乱暴するな」
棟居は、父を救おうとして、米兵の一人の背中にしがみついた。赤鬼のような白人だった。腕に戦場で負傷したのか、火傷やけどの引きつれたような傷痕きずあとがあった。赤味がかった傷痕から金色の毛が生えていた。ぶうんとその太い腕が動いて、彼はあっけなく地面に叩きつけられた。懐中から父のみやげの饅頭が落ちて、ころころと地面に転がった。米兵の頑丈な軍靴ぐんかが、それを無造作に踏みにじった。
饅頭の転がった先で、父がぼろ布のように米兵に叩きのめされていた。なぐる、つばを吐きつける、眼鏡が吹っ飛んで、レンズが粉々に砕けた。袋叩きとはまさにこのことだった。
「だれか、お父さんをたすけて」
棟居は、取り囲んだ群衆に救いを求めた。だが幼い彼に救いを求められたおとなたちは、にな肩をすくめて目をそらすか、うそ寒そうに笑うだけだった。誰も手を出そうとしなかった。
父が救おうとした若い娘の姿は、すでにどこにも見えなかった。父を身代わりに置いて、逃げてしまった様子である。父は彼女を救おうと身を挺して、犠牲山羊スペークゴートになってしまったのである。
生半可なまはんかな正義感から手を出せば、今度は自分が第二のスケープゴートにされてしまう。群衆は父が身代わりにされたのを見ているだけに、ますますおじけづいていた。
「おねがいだ、お父さんをたすけて」
棟居が泣きながら頼んでも、誰も知らん顔をしていた。その場から立ち去ろうともしない。救いの手をさしのべようともせず、対岸の火事でも見るように好奇心だけあらわわにして、事件の成行きを見守っているのだ。
2021/07/17
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