~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
怨 恨 の 刻 印 (1-04)
急に米兵たちがゲラゲラ笑いだした。棟居が振り返ると、米兵の一人がぐったりと動かなくなった父の体に小便をかけていた。腕に火傷のような赤い傷痕のある兵隊だった。
別の兵隊が真似をした。盛大な放水の集中する中で、父はすでに自分があ何を浴びせられているのか意識していないようであった。その様を見て、米兵だけでなく見物していた群衆も笑った。
父に放尿している米兵よりも、それを見物して笑っている日本人の方に、棟居は深い憎悪をおぼえた。棟居の頬に涙が流れていた、だが彼は、それを涙だとは思わなかった。心の中にえぐられた傷からほとばしった血が、目からあふれ出ているのだ。彼は幼い心にこの光景を忘れてはならないと思った。
いつかこのあだを討つ日のために、まぶたにしっかりと焼き付けておくのだ。敵は、この場に居合わせたすべての人間である。米兵、おもしろがって見物している群衆、父に救われながら、父を身代わりにして逃げてしまった若い女、彼らのすべてが自分の敵である。
米兵は、ようやく父をなぶるのに飽きて、去って行った。群衆も散った。その頃になって警官が来た。
「進駐軍が相手では、どうにもならないな」
警官は無気力に言って、形式的に調書を取っただけだった。まるで、殺されなかったのが目付ものだと言わんばかりの口ぶりだった。棟居はその時、その警官も敵に加えたのである。
父は、全身に打撲傷を負ったうえに、右肩の鎖骨と肋骨ろっこつを二本折られていた。全治二ヶ月と診断された。だがその時の検査が杜撰ずさんだったために、脳の内部に血腫けっしゅができていたことを見過ごされてしまったのである。
それから三日後、父は昏睡こんすい状態に陥った。その夜遅く棟居と妻の名をうわ言のようにつぶやきながら息を引き取った。
その時から、父と自分を捨てた母と、杜撰な検査で父を死に至らしめた医師が、棟居の生涯の怨敵おんてきに加わった。
彼の人間に向ける不信と憎悪は、その時以来、培われたものである。敵の顔と名前を一人一人覚えているわけではない。母の顔すら知らない。だから彼の怨敵は、あの時居合わせた米兵、群衆、若い女、警官、そして医師と母に代表される人間のすべてであった。
彼は、相手が人間なら誰でもいい、一人一人ゆっくりと復讐ふくしゅうしてやるつもりだった。
孤児になった棟居が刑事になるまでの過程にも紆余曲折うよきょくせつはあったが、そのことよりも彼が刑事になった動機が重要なのである。
刑事は国家権力(いちおう形だけでも)を背負って犯人を追う事が出来る。彼にとって犯人も敵も同じである。人間が法律という大義名分の下に、人間を追い詰めることが出来る職業は、警察官ぐらいのものだ。
社会正義のためではなく、人間をもはやどう逃れようもない窮地に追い込んで、その絶望やあがき苦しむ様をじっくりと見つめてやりたい。あの日、父がなぶり殺しにされるのを見物していた群衆の一人一人を探し出し、追いつめ、どう逃れようもない絶望のふちへ突き落としてやるのだ。
犯罪としてこれをすれば、長続きはしない。いつかは逆に自分が追い詰められてしまう。しかし、正当に職業化すれば、辞職するまで人間を追うことが出来る。
棟居は、社会正義のためではなく、人間全体に復讐するために刑事になったのである。
復讐だから、要は、追い詰めた相手を出来るだけ苦しませればよいのだ。
2021/07/17
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