~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
怨 恨 の 刻 印 (2-02)
棟居刑事は、その後も何度かビジネスマンホテルに足を運んだ。
「あそこにはもうなにもないよ」
ペアになった山路刑事は言ったが、
「私は、どうしてもあのホテルが引っかかるんっです」と棟居は固執した。
「どう引っかかるんだい?」
「ヘイワードは、予約もせずにふらふらとあのホテルへ来たそうですね」
「フロント課長は、そう言ってたな」
「いったいどこであのホテルの所在を知ったんでしょう?」
「そりゃあ空港で紹介してもらったかも知れないし、タクシーに連れて来てもらうことも出来る」
「空港で紹介するのは、一応名の通ったホテルだけですよ。あのホテルはまだオープンして間もないし、ホテル協会にも加盟していません。またタクシーが連れて来たにしては、ホテルの場所が中途半端ですね。空港から来る場合、品川か新橋が都心のホテルが多いんじゃないでしょうか」
「そうとは限らないだろう。車なんだから、運転手にとってはメーターが上った方がいい。それに新宿は副都心だ。げんに大きなホテルがある」
「ま、それはそうですが、あのホテルには、外人客はめったに泊まらないそうです。外国人の、しかも日本は初めてのガイシャが来たというのは、あらかじめなんらかの土地鑑があったようなきがするのです」
「土地鑑ねえ、しかしあのホテルには初めて泊まったんだろう」
「そうです。日本へ来たのは今度が初めてだったんですから」
「俺は君の思い過ごしだと思うな。たまたま空港から乗った車の運転手が、あのホテルを知っていて、あそこへ案内したのじゃないかな」
「それなんですよ。もしタクシーが連れてきた場合、言葉の判らない外国人なんだから、まず運転手がフロントへ来て、部屋があるかどうか問い合わせるのが、普通じゃないでしょうか? ところがヘイワードは自分で直接フロントへ来た」
「彼は片言の日本語をしゃべったそうじゃないか」
「それにしても初めての外国なんだから、運転手に頼んだ方が、無難ですよ」
「そんなもんかなあ」
山路はどうもピンと来ないようだった。それでも棟居のビズネスマンホテル通いに突き合ってくれたのは、彼の主張に多少の共感を持ったからであろう。
だが、棟居の執着にもかかわらず、東京ビジネスマンホテルからは、なんの収穫も得られなかった。
ジョニー・ヘイワードのわずかな遺品は、アメリカ大使館に引き渡されて、彼の日本におけるかすかな痕跡も完全になくなってしまっていた。
「どうやらこのホテルは見込み違いだったらしいな」
山路が慰め顔に言ってくれたが、棟居は気落ちして、ろくに返事もしない。やはり山路が初めに主張したように、ただ何気なくやって来たのだろうか? これまでの捜査によっては、被害者と、東京ビジネスマンホテルの間には事前のいかなるつながりんも発見されなかった。
さすがの棟居もあきらめかけた。これを最後にしようと思いながらホテルの玄関を出ると、眼の前に一台の高級車が停まった。運転手にドアを開けられて、白大島をいきに着こなした上品な婦人が降りて来た。
「おや?」
すれちがってから、棟居はふと振り返った。
「どうかしたのか?」
山路がたずねた。
「いや、いあますれ違った婦人にどこかで会ったような気がしたもんですから」
「そりゃそうだろう、あれが八杉やすぎじゃないか」
「彼女が八杉恭子」
棟居は、足を停めてその立ち去った方角をじっと見つめた。八杉恭子は家庭問題評論家として、テレビや雑誌に引張りだこ の売れっ子である。自分の二人の子供たちとの <母子通信> という手紙形式で、青春期の微妙な年ごろにさしかかった子供への母親の対応のしかたを書いた一種の育児日記を著して一躍、マスコミの寵児ちょうじになった人物であった。その本は国内だけでなく、英訳されて、海外にも紹介された。
そのいかにも育ちのよさそうなエレガントなムードと、かげのある美貌びぼうは、まさにテレビ向きで、いまや「時の人」の観があった。
2021/07/18
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