~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
謎 の キ イ ワ ー ド (1-01)
またシラケた朝が来た。すでに酔いはめていたが、頭のしんに鉛が詰まったような不快感が残っている。まぶたの裏に眠けが貼りついているが、これ以上寝ていても眠れないことはわかっている。不健康な朝だった。
恭平きょうへいは手洗いに行くために立ち上がった。意識はしっかりしているつもりだったが、足元がふらついた。足に力が入らず、体の平衡感覚が頼りない。これがクスリにラリった後の後遺症だった。
雑魚ざこ寝の布団の中には、昨夜乱痴気らんちきパーティを繰り広げた仲間たちが、まだ寝くたれていす。いずれも二十歳前の若者のくせに、クスリの飲み過ぎと荒淫こういんと栄養失調で血の気のない顔色をしている。
肝臓障害のように土気色にむくんだ顔、かさかさに乾いた皮膚、目の下に浮かんだ青黒いくま、ひび割れた唇、目やにをこびりつかせ、よだれをたらし、死んだように眠りこけている姿は、とても二十前の若者とは思えない。トイレに向かって、雑魚寝の間を縫っていくと、一人の足をおもいきり踏んづけた。
若い女である。彼に踏まれて、痛そうにまゆをひそめながら、うす目を開いたが、寝返りを打って、また眠り込んでしまった。全裸に近い格好であった。不摂生にもかかわらず、張り切った身体をしている。身体の一部にわずかに毛布をかけただけの胸元と腰の発達は、せこけた男たちの間で憎たらしいほど見事であった。昨夜のスナックで知り合ったばかりの女だった。他にも、あまりなじみのない顔がいくつか雑魚寝の中にまじっている。
みんな、昨夜の深夜スナックでクスリに酔って踊っている間に合流した連中だろう。
ここは、恭平の勉強部屋として、親が買ってくれたマンションの一室である。子供に甘いというより、ほとんど放任している親は、恭平が、家から完全に隔離された独立の場所の方がよく勉強できると言うと、直ちに二千万近い金を出して、杉並区の閑静な一角にあるこのマンションを買ってくれたのである。
恭平はそこをアジトにして、学校へも行かず、同年配のフーテンたちと遊びまわった。
深夜喫茶やスナックで夜を明かす。知り合った連中を手当たり次第に引き具して、自分のマンションへ連れ帰り、睡眠薬遊びやセックスパーティにふけった。
部屋の中は、よくもこれだけ散らかせたものとあきれ返るほどに猥雑わいざつと不潔をきわめている。
キチンの流しには食器やインスタント食品の残物が積み上げられて、その上をハエや小虫が飛び回っている。室内には汚れた衣類や下着が散乱し、その間にギターやレコードが転がっている。
雑魚寝しているテラスに面した八畳の部屋は、布団と毛布が乱れ、その間に女の脚や、ビートルズ・カットの汚れた頭が、畠の中の大根や、南瓜のようにのぞいている。チリ紙の丸めたのや、果物の皮、吸殻であふれた灰皿、睡眠薬の空箱、コーラの空きびん、避妊具などが布団の間や、枕元(どこが枕元かよくわからないが)に散乱して、昨夜そこで行われた乱痴気パーティのすさままじさを物語っている。
食物のえたようなにおいが、部屋の中に立ち込めている。もともと不潔だったところへ、気密性満点の部屋の中で八人の男女が雑魚寝をしたために、空気が汚れきっている。頭が重いのは、クスリのせいばかりではなく、汚れた空気を一晩中吸いつづけたためだろう。
だが連中は、まだひたすら眠りこけている。隣りのダイニングキッチンに入ると、ここはまた寝室以上の荒れようである。化学消火剤空き缶がごろごろしていて、板敷の床がべとついている。寝室とは別の刺戟しげき的な異臭がこもっていた。
恭平はここで昨夜スナックから返って来て<消火剤遊び>をやったことを思い出した。
その遊びをやろうという了解は、一瞬の間に成った。みなかなりクスリでラリっていた。だが羞恥心しゅうちしんがクスリの力で麻痺まひしていたのではなく、そんなものは初めからどこかへ置き忘れていた。男四人、女四人は着ているものの一切をかなぐり捨てて、ダイニングキッチンの床にうずくまった。
そこへ恭平が消火器のノズルをたたいて、化学消火剤の泡を浴びせかけた。ダイニングキッチンは、たちまち泡の海になった。そこへさらに次々に消火剤を浴びせかける。白い泡の中で、男と女は悲鳴をあげながらふざけちらした。“泡踊り”の団体版である。
泡をまぶしたお互いの体が滑ってなかなかつかまえられない。泡の中にそれぞれの顔と体の特徴が隠れて、誰が誰か見分けられない。新鮮で刺戟的な鬼ごっこだった。
恭平は泡の中で何人かの女たちと交わった。それは、クスリとスピードと荒淫に鈍磨した彼の性感に、目の覚めるような刺戟を与えた。消火剤のぴりりとする刺戟が、性感をさらに高める。
この消火剤遊びの副産物としてやった「シャワーまんじゅう」もなかなかおもしろかった。それは泡でべとべとになった身体で、シャワー室の中で押しくらまんじゅうをするのである。狭いシャワー室の中に入れるだけ詰め込む。身動き出来ないほど詰め込んだところで、冷水を出したり、熱湯を注いだりする。
どんな熱い湯を注ぎかけられても逃げることが出来ない。やけどを負う者も出るか、それがマゾヒスティックな快感を掻き立てるのである。
2021/07/31
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