~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
謎 の キ イ ワ ー ド (1-05)
生産的な事は何もしない。明日に備える必要はない。ただ、現在だけを押し流していればよい。だが、これらの若者にも、もう少し前までは、「本物」がいた。彼らは徹底的に世俗に反抗し、所詮しょせん、社会全体を敵にまわして勝ち目がないと悟ると、絶海の孤島や深山の奥に自分らのユートピアを探して、都会から去って行った。
残ったのは、反世俗という恰好を付けた最も世俗的な連中であった。彼らはいずれも都内や近郊に中流以上の家があった。親、兄弟と一緒に暮らすのを否定しても、帰りたくなったらいつでも帰れる。
中には、自宅から通って来る者もある。コインロッカーで変装(ヒッピーやフーテンの“ユニホーム”に着替える)すると、インスタントヒッピーとなって、大都会の孤独をかこち、日本のアウトサイダーを気取る事が出来る。
彼らが本当のアウトサイダーならば、なにも芸術家やジャーナリズムなどをポーズする必要はまったくない。彼らのポーズには“自由人”という名前の最も世俗的な職業に対する憧れがあり、アンチ世俗や超俗の姿勢が偽物であることを露わしていた。
この女も、その一人だろうと恭平は思った。
「名前なんてどうだっていいじゃないの」
女は、はすっぱに笑った。
「格好つけんなよ、あんたが気に入ったんだ。教えてくれたっていいだろう」
「もう二度と会わないかも知れないのよ」
「また会いたいな」
「案外、センチメンタルなこと言うじゃない」
「おれやもともとセンチメンタルなのさ。そうでなければ、こんな所で一人暮らしはしていない」
「マンションの一人暮らし、かっこうな身分らしいわね」
「これがけっこうな身分かね、親から見捨てられた態のいい孤児さ」
「あなた孤児なの。それじゃあ、私と同類だわ」
恭平の孤児という言葉に共感を覚えたらしい。女は少し関心を持った目を向けた。
「親はいないのかい?」
「いないも同然よ」
「おれと同じだな。遠足に熊を持って行ってから、おれの方から親を勘当したのさ」
「子供が親を勘当出来るの? それより、その熊って何のことなの?」
恭平は、自分の心に刻み付けられたうらみを話した。
「そんなことがあったの。あなたも可哀想な人なのね」
女は同情的な視線を恭平に向けた。
「君の話を聞かせてくれよ」
「私の方は月並みよ。私の母は二号なの。父親は・・・ああ、あんあの汚らわしいオスだわ。母は、そのオスに仕えるセックスの奴隷よ。だから、私、家を出たの、ヤサグレの新人よ」
「名前を教えてくれないか」
朝枝路子あさえだみちこ、あさの木のえだ、みちは道路のろのほうよ」
「でもよう、きみのお母さんが、その二号さんになっているのは、きみが生まれる前からだろう。なんだって、今になって家出したんだい?」
「妊娠したのよ、いいとしして、汚らわしいったら、ありゃしないわ」
朝枝路子は、今にもつばを吐きそうにして、そこが他人の家だったことを思い出して、危うく思いとどまった様子であった。
「そうか、それで昨夜おれたちに従いて来たんだな。これからどうするつもり?」
「べつに何のつもりもないわ。少しお金を持って来たから、それで当分やっていくわ」
「金がなくなったら?」
「わかんない。そんなに先のことまで考えていないもの」
「よかったら、ここに住まないか?」
挙兵は思い切って誘いをかけてみた。
「いてもいいの?」
「きみなら大歓迎さ」
「たすかるわ」
「じゃあ決まった」
挙兵は手を差し出した。路子はその手を無造作に握った。こうして若い二人の“同棲どうせい契約”はしごくあっさりと結ばれたのである。
隣室から、ようやく寝足りた仲間たちが、もそもそ起き出して来る気配がした。
2021/08/02
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