~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
謎 の キ イ ワ ー ド (2-03)
ドアにネームカードやルームナンバーなどは出ていない。部屋の中からはみ出したガラクタが廊下のいたる所をふさいでいる。半ドアの家があった。中から猛烈なボリュームでモダンビートのジャズが漏れている。テレビをつけっぱなしにしているのは、この家らしい。
ケンは、半ドアの隙間からどなった。
「マリオの部屋はどこか教えてくれ」
室内に人の動く気配があった。しかしいっこうに戸口に出て来る様子がない。明らかにこちらの声が届いているのに、無視しているのである。
ケンは、同じ言葉を繰り返した。ようやく奥から中年のふとった女が、猜疑さいぎを込めた目をのぞかせた。
「うるさいわねえ、私がマリオだけど、あんた誰なのさ」
「あんただマリオか、実はちょっと聞きたいことがある」
男を予想していたケンは、相手が圧倒的なボリュームを持った中年女だったので、構えを改めてむかい合った。マリオはケンの示したバッジに少したじろいだ様子だったが、直ちに立ち直って、
「警察が、私に何の用さね」
とドアのかげから警戒の視線を向けた。ハーレムでは警官も信用しな。いや警官だからこそ信用しないのである。警察はいつも金持ちと権力の味方で、弱い者や貧困者を折あらば追い出そうとしていると信じ込んでいる。
ケン自身そのように思われても仕方がないことを認めている。ニューヨーク市警の腐敗は何度剔抉てっけつされても、底深い病蝕びょうしょくの根が、すぐ新たにうみを蓄える。警察が完全無欠な健康体であれば、警察が警察を見張る「内務監査部シューフライ」などは必要ない筈であった。
警察だけでなく、ニューヨークという街全体が金持ちの味方だった。ここは金持ちだけに微笑む街なのである。金持ちだけが人間として遇され、金のない者は、ゴミよりひどい扱いを受ける。その最もよい証拠がハーレムである。
セントラルパークの西には、ハーレムとは対照的な「人間の住む町」がある。ゆったりした緑の芝生を敷き詰めた中に、デラックスなアパートが立ち並んでいる。季節の花が咲き乱れ、ここではハーレムの住人三十人を養える食費を一匹のペットの餌代にあてている。
ここの住人は、決して100ストリートから北へは行かない。彼らにとって100ストリート以北は、ニューヨークであってニューヨークではないのだ。石を投げれば届くような距離にこの世の天国と地獄が併存している。
「ちょっと中へ入れてもらうぜ」
ケンは立ちふさがるマリオを押しのけるようにして、ドアの内側へ強引に入った。ベッド、食卓セット、冷蔵庫、テレビ、それだけである。
「いったい、何を聞きたいんだね」
マリオは、ケンの侵入に対してはっきりと怒りを現した。
「その前に、あのクレージィテレビをなんとかしてくれないか。よく近所から文句が出ないな」
ケンは、テレビの方を指さした。
「もっと迷惑になることを、みんな平気でやってるよ」
マリオは言い返しながらも、テレビを消して、さあ用は何だと言わんばかりに、敵意を込めた視線をケンに当てた。
2021/08/04
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