~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
謎 の キ イ ワ ー ド (2-04)
「このアパートに、ジョニー・ヘイワードが住んでいたはずだが」
「いたよ、もとも今は旅行中だけど」
マリオは以外にあっさりと言った。
「ジョニーは旅先の日本で死んだ。家族はいないのか・
「ジョニーが日本で死んだって? 本当なの」
マリオは、さすがにびっくりしたらしい。
「そうだ、日本から遺体を引き取るように言って来ている」
「おやじさんがいたけど、三か月前に交通事故で死んじまったよ。まあ、これ以上生きていても、べつにおもしろいことはなかったろうね」
「他に身寄りの者はいないのか」
「いないと思うよ。あまり詳しくは知らないけどね」
「あんたはこのアパートの管理人ドアボスか」
「そうだよ、こんなぼろアパート、誰も家賃レントをろくに入れやしない。それを一軒一軒取り立てるのは、大仕事さね。こんな部屋代をフリーにしてもらったぐらいじゃとてもあわないね」
「ジィニーと父親の職業は何だったんだ?」
「ジョニーはどこかのトラックの運転手。父親はアル中で息子の稼ぎにぶら下がって毎日のんだくれていた。そのくせ詩なんか口遊くちずさんでインテリイ臭いじじいだったよ。私はあんまりつき合いがなかった」
「あんたドアボスなんだろう」
レントを取り立てるのが、私んぽ役目さ。どんな商売をやっているのか、私の知ったことじゃないよ」
「ヘイワード父子は、いつごろからここにいたんだ?」
「このの連中は、みんな古いよ、なにしろレントが安いからね。そうさね、十五年ぐらいかな」
「その前は、どこに住んでいたんだ?」
「知るもんか、もともとあの父子は人間ぎらいで、近所の誰とも付き合わなかったからね」
「日本へ何しに行くとか言ってなかったか」
「ああ、変なこと言ってたね」
この時マリオに初めてかすかな反応が見られた。
「変なこと?」
「日本のキスミーに行くとか」
「キスミーだと?」
「たしか、そんなふうに聞いたよ」
「いった何のことだ」
「私が知るはずがないだろう。日本人の名前か、土地の名前じゃないの。日本には変な名前が多いからね」
「あんたに言ったのはそれだけかい?」
「それだけだよ。可愛げのないやつで、土産を買って来るとも言わなかったよ。もっとも死んじまっちゃ、土産どころじゃないけどねえ。それでいったいなぜ死んだんだい?」
「殺されたんだ」
「殺された!」
「日本の警察に返事をしたやらなければならない。ジョニーの部屋を見せてもらうよ」
「んんで殺されたんだい。殺されたのは、トウキョウかい? なんせトウキョウは物騒な所らしいからね」
マリオは急に旺盛おうせいな野次馬的好奇心をかき立てられたらしい。ケンはあまり取り合わずにヘイワード父子の住んでいた部屋に案内させた。
マリオの所と同じ様な暗く狭苦しい部屋だった。窓の向い側には隣りのアパートの剥き出しの壁が、目隠しをするように立ちはだかっている。テレビ、冷蔵庫、ベット、ワードロープ、椅子が二脚、ベッドヘッドの小テーブルに小さなブックラックがあって、数冊の本が入っている。それだけだった。
冷蔵庫を開けると、何も入っていない。電気は切ってある。部屋の中はきれいに片付けられてある。長途ちょうとの旅へ出るので、いちおう整理して行ったのであろう。
だが、ケンは空になった冷蔵庫を見て、部屋の主が、ここへは帰って来ないつもりで旅立ったような気がした。残した道具は、がらくらばかりである。
「レントはちゃんと払って行ったのか?」
「その点は几帳面きちょうめんな男で、一度も催促したことがないよ」
「いつまで払ってあるんだ?」
「今月分まで払ってあるよ」
「それじゃあまだ半月ほど権利が残っているな。警察がいいというまで、この部屋に手をつけるな」
「今月が終わったら、どうするんだよ」
「いいから、指示があるまで、手を付けるな」
「ふん、警察がレントを払ってくれるのかい」
「心配するな、こんなごみため、新しい借り手はなかなかつかないよ」
「ごみためで悪かったね」
マリオの悪態を聞き流して、ケンはアパートを出た。そのままにしておけと命じたのは、警察としての習性から言っただけで、深い考えがあったわけではない。もともと上司の命令で、ハーレム生れの自分がその役を押しつけられただけで、熱意はない。
黒人の一人や二人が他国で死のうと生きようとどうということはないではないかというはらがある。
もともとニューヨークは人間が多過ぎるのだ。ハドソン川やイーストリバーに一日一人は死体が浮かぶという土地柄である。
ケンが調べに来たのも、日本の警察に対する儀礼であった。他国の警察が、熱心に捜査しているのに、まさか被害者の本国の警察から、適当なところで切り上げてくれとは言えない。
「これがハーレム川あたりに死体が浮かび上がったんなら、過失による転落溺死できしで片付けられるのにな」
ケンは、そんな乱暴な事を考えた。ケンは、なぜかハーレム川の暗い濁った水面を見たくなった。
2021/08/05
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