~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
不 倫 の 臭 跡 (1-01)
小山田武夫は、最近妻の文枝に漠然たる疑問を抱いていた。彼女の身辺に自分以外の男の体臭を感じるのである。それも、身体のどこかに明らかな不倫の痕跡を認めたのでもなければ、男の存在をしめす確証を見つけたわけでもない。
細かに分析すると、不純物はなにも残らない。だが全体に違和感がからみついているのだ。人間ドックで精密検査をしてもなんら異常所見のない者が、不健康な感じを払拭出来ないのに似ている。
夫婦で話し合っている時など、時々妻の返答が一拍遅れることがある。そんな時、彼女の実体がどこか他の場所へ抜け出していて。彼のそばに居るのは抜け殻のような気がする。
夫のそばに居ながら、妻の実体はどこか他の男の許に遊んでいるのである。いわゆる「心ここにあらず」という状態が、潜在意識に訴える瞬間映像広告のように挿入されているためにはっきりと捉えられない。
小山田に呼ばれて、はっと我に返った時の、彼女のさりげなくとりつくろった態度は、巧妙であり、少しも破綻を見せない。だが巧妙であればあるほど、小山田はそこに作為を感じる。
むしろ多少の破綻を見せた方が、自然なのである。少しもつけこまれる隙を見せないように、夫の前で妻が武装している姿は、かえって不自然であった。それは夫に知られてはならない秘密をかかえている証拠ともとれる。
2021/07/31
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