~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
不 倫 の 臭 跡 (1-02)
だが彼の妻の部分に、公開された領域がはいり込んで来た。侵略は容赦なく、確実に行われた。彼のためにキープされたささやかな花園がじりじりおかされた。
それも歯を食い縛って耐えたつもりであった。病が治癒ちゆするまでの辛抱だ。その時が来れば、今の浸蝕など一気に駆逐して、ふたたび自分だけの花園をよみがえらせてやる。そしてその花園に誰にも見せない美しい個性的な花を栽培するのだ。
その自信はあった。少なくとも公開された部分によって妻の領域が侵されている間は、税金は支払わなければならないのだ。その浸蝕に個性はない。マスクがいくら大きくなっても、素顔が死ぬことはない。素顔が一時的に隠されるにすぎない。
だが、仮面だと思っていたものが、素顔になったとしたら、別の素顔が古い素顔をおおう。被われた素顔は、ついによみがえらないだろう。それは素顔の変質である。
小山田は、最近妻を侵している部分に別の個性を感じるようになったのである。いつの間にか別の男の鍬が、妻の体の中に新たな開拓のあとを刻み付けている。洗練された職業的な訓練でなく、女の意志による“変身”が進んでいる。
── 自分の妻から他の男の女に変わりつつある。もはや自分のための花園は死に、他の男のいた種子が、新たに芽を吹き、別のつぼみはらませて、まったく別の花を咲かせようとしている ──
小山田はその想像に慄然りつぜんとなった。単なる妄想もうそうではなかった。それは夫としての本能的な直観である。妻と二人の寝室の中にまでその男の跫音が枕に響いて来る。
自分の疑惑を言っても、妻は笑い飛ばすだけである。そして次に世にも悲し気な顔をして、そんなに自分を信じられないのかと訴える。
別の男の足音は、徐々に、確実に高くなってきた。妻の化粧や微妙な変化が現れた。身につける香水も変わってきた。それは営業用ではなく、ある特定の個人の好みに合わせている。
彼女は、これまでの自分の体臭によく調和すると言って国産の香水を愛用していた。あるかなしかの控え目な香りだったのが、舶来の、南国的な華やかで自己主張の強い香水を使うようになった。
持ち物にも小山田の知らないものが増えてきた。ロシア産の琥珀こはくのネックレスや、アメリカ産の「インデアンの涙」と呼ばれるブレルレット。小山田が問うと、客から貰ったと答えたが、客の単純な贈り物としては高価すぎるようであった。
「銀座のお客はちがうのよ」と彼女は言ったが、小山田にはロシアのネックレスもアメリカのブレスレットも同一人物から贈られたもののような気がした。色合いや形状の好みが似通っているのである。
さらに、彼女は体の深部にこれまで夫婦の間になかった“異物”を着けた。これまで彼らは行為の都度避妊具を使っていた。当然のことながら小山田が完全に健康を取り戻すまで、子供を生まないことに夫婦で申し合わせたのである。
それが、最近、文枝は性感が損なわれると主張して子宮リングをめた。小山田は、初めのうち、妻がそんなものを体に着けたことを知らなかった。営みの前にいつものように避妊具を装着しようとすると、彼女はもうしんな予防をする必要はないと告げた。
小山田は、妻が自分に無断でそのような異物を着けたのが、不愉快であった。だがまだ当分の間避妊は続けなければならない。妻が羞恥しゅうちに耐えて施した処置に異議は唱えられなかった。
小山田は、妻がそれを男のリクエストによって身に着けたにちがいないと思った。
避妊リングなどというののは、女が自分の一存で着けるものではない。必ず男の意志が働いているはずだ。彼はその時はっきりと妻の不貞を悟ったのである。
だがそれも、動かぬ証拠ではなく、“疑わしき状況”にすぎない。
どんなに疑わしくとも、証拠を握らないかぎり、どうすることも出来ない。自分は現在妻に養われている不甲斐ない男なのである。しかし養われている夫でも、盗まれた妻を取り戻すことは出来る。蚕食さんしょくの範囲を出来るだけ食い止めるために闘わなければならない。
小山田が、闘病中の乏しい体力を振り絞ってその闘いを始めようとした時、妻は突如として行方をくらましてしまった。
2021/08/09
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