~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
不 倫 の 臭 跡 (2-01)
その夜、妻はとうとう帰宅しなかった。これまで不貞のにおいをしきりに発しながらも、これほどあからさまな仕打ちをしたことはなかった。それは小山田に対する挑戦ともとれた。敵は、十分な戦力を蓄え、公然と宣戦したのである。仮面を脱いで、敵意に満ちた素顔をき出したのだ。
一夜、眠らずに妻の帰りを待った小山田は、打ちのめされた思いで朝を迎えた。夫の敗北を決定的にした残酷な朝であった。
これが相手の男にとっては、勝利の輝かしい朝に違いない。とうとう夫の引力から断ち切った人妻の、満ち足りた性交渉と十分な眠りによって弾み立つような肌をまさぐりながら、勝利感をみしめているだろう。
みじめだった。情なく悔しかった。だが小山田は諦め切れなかった。まだ彼女を取り返せるかも知れない。あるいは、非常に楽観的な可能性だが、他のよんどころない事情で帰れなくなったとも考えられる。店が遅くなって足を失い、店の同僚の家に泊めて貰ったということもあるだろう。友人にひやかされて、電話一本もかけにくくなったのかも知れない。
そうだとすれば、朝になってから帰る可能性もある。早やとちりして、妻に恥ずかしい思いをさせてはならない。ホステスに夫(扶養している)がいるのは、何のメリットにもならないのだ。文枝が彼の存在を隠してるわけではないが、小山田は妻の勤め先に対しては努めて彼女の背後に隠れるようにしている。
正午まで待ったが、文枝は帰って来なかった。もはやこれ以上待てなかった。小山田は妻の店のマダムの家のダイヤルを回した。

まだ眠っていたマダムを強引に起こしてもらった小山田は、妻が昨夜定時の看板に店を出たと聞いて、妻の裏切りが確定したのを悟った。
「昨夜は、なおみちゃんは定時に店を出ましたわ。いつもと比べて特に遅いという時間じゃなかったわね」
マダムは、まだ眠けの残っている声で答えた。なおみというのが妻の店名げんじなである。
「誰かと一緒に店を出ませんでしたか? 朋輩ほうばいとか、お客といっしょに」
「さあ、そこまでは気が付かなったわね。でも、お客に誘われて、店が終わってから、どこかへ遊びに行くことはあるわよ」
「しかし、一晩中遊ぶということはないでしょう?」
「それはまあ、お客と一緒にどこかへ泊りでもしなければね」
と口をすべらせてから、マダムは自分の話している相手が店で使っているホステスの夫であることに気がついたらしい。このころから彼女の寝起きの朦朧もうろうたる意識が醒めてきた様子であった。
「あの、なおみちゃんは・・・いえ奥さん、未だお宅に帰らないんですか?」
マダムは言葉の調子を改めた。
「まだなんです。昨夜マダムにどこかへ寄り道するようなことは言わなかったでしょうか」
そんなことを他人におくくらいなら、自分に連絡するはずであったが、小山田は藁にもすがるような気持でたずねた。
「べつになんとも聞いていませんでしたけどねえ」
マダムは、気の毒そうに言ってから、
「でも、まだこれから帰って来られるかも知れませんわよ。もしかすると、出先から直接お店に出て来るかも知れないわ」
「そういう可能性もあるのですか?」
勧められるままに、仲間の家へ泊まったのかも知れないわ。お宅はわりあい遠い方だったわね」
彼らの家は埼玉県との県境に近い都下K市の外れにある。都心から優に一時間はかかる。妻の勤めには不便であったが、小山田の健康のためにそこにとどまったのである。
「ええ、しかしこれまで外泊したようなことはないのです」
「そんあに深刻に考える必要はないと思うわ。とにかくもう少しお待ちになってみたら。そのうちにけろりとして出勤して来るわよ。そん時はすぐに私から連絡させますわ。旦那だんな様に心配かけてはいけないと、私からきつくしかっておきますから、どうかあんまりひどく責めないでください」
マダムは、小山田が妻を厳しく追及して、店の重要な戦力になっている優秀なホステスを失う羽目になるのをおそれている様子であった。
だが、店の出勤タイムになっても、文枝は出て来なかった、連絡もない。
文枝は、その夜をさかいに失踪しっそうした。どこへ行ったのか、まったく消息を絶ってしまった。交通事故や誘拐ゆうかいった形跡もない。交通事故ならば、警察や救急病院からなんらかの連絡があってしかるべきである。また誘拐ならば必ず犯人が何か言って来るはずだった。
それがどこからも何の連絡ももたらされなかった。
小山田は、妻の私物をしらべた。これまで夫婦の間でも、互いのプライバシーを尊重して相手の私物には手をつけなかったが、夫婦の一方が失踪したとなれば、別である。
彼女の私物の中に不倫の相手の手がかりが残されているかも知れない。だが、そんな手がかりだけではなく、小山田は奇妙な事実を発見した。
文枝は、装身具や宝石類を全部残していた。例の琥珀こはくのネックレスや、「インデアンの涙」もあった。その他、好みの衣裳もそっくりワードロープにつくるしてある。その日出勤した時身につけていたもの以外は、全部、残してあったのである。
これは不可解だった。もし文枝が男と示し合わせて駆け落ちしたのであれば、自分の財産は一つ残さず持って行ったはずだ。
── なにか突発の事情があって、急に駆け落ちすることになって、財産を持ち出す暇がなかったのだろうか? ──
そうでなければ、おとこから貰ったに違いないネックレスとブレスレットだけは持って行ったはずである。彼女はそれすら残した。
2021/08/09
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