~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
不 倫 の 臭 跡 (2-02)
翌日、マダムが小山田を訪ねて来た。店としても彼女に急にやめられると困るのである。
「特に親しかった客は、いませんでしたか?」
小山田は尋ねた。
「なおみはんは人気がありましたからね、ひいきにしてくれるお客は多かったけれど、特別に親しかった人は居なかったようですわ」
いかにも夜の世界で鍛え上げたようなマダムは、つやっぽいが鋭い視線を家の中に注いだ。小山田が妻を隠したとでも疑っているような視線であった。
「店の友人の家に行ったのでもなかったのですね」
「お客には好かれていましたが、友達付き合いは悪かったわね。もっともそれは奥様ホステスの共通の傾向だけれど」
ここで小山田は新たな発見をした。それは週二階ほど文枝が店を定時に出たのもかかわらず帰宅して来るまでの間に、二、三時間の空白の時間があったことである。文枝は、週二回ほど午前三時過ぎに帰宅して来た。彼女は店が遅くなったと言い分けして、小山田もそれで納得していた。店が車を出してくれるというので、彼も安心していたのである。
「この商売は、お客しだいだから、お客が帰らないと私たちも帰れないのよ、ごめんなさいね」と謝れると、もう何にも言えなくなってしまう。
疑いを全く持たなかったわけではないが、妻に養われている身であるながら、、そんな嫉妬しっとを鎮めるための確認を店にするのが、ひどくみじめに思えた。
だが、いまマダムの話を聞くと、店はいつも定時の午後十二時に閉めていたという。
「店を開けていたくても、警察がうるさいのよ。なおみちゃんはいつも閉店と同時に帰っていたけど」とマダムは言った。
銀座の店から、彼らの家まで、一時間あれば帰って来られる。車を飛ばせば、もっと短縮出来よう。それを実は週二回、どこかで二、三時間の空白の時間を持っていた。彼女はその空白をどこで誰と共に過ごしていたのか?
小山田は、妻の捜索をはじめた。探し当てたところで、彼女が自分のもとかえってくれる保証はなかったが、取り返すための努力は、捨てたくなかった。小山田は、まだ心の隅で、妻を信じていたのである。
彼は、まず妻の相手の男を探し出そうと思った。その男の許に彼女はいる。妻が自分の足跡を隠したつもりでいても、二人の不倫の痕跡こんせきはどこかに残っていないか?
── 妻が遅く帰宅した夜は、男が近くまで送って来たかも知れない ──
「車だ」
小山田は、一つの目標を見つけたと思った。これまで店が車を出したという言い訳を信じていたのだが、定時に店を退けて、“自分の都合”で遅くなった彼女は、自分で車を探したはずである。帰りの遅い妻を心配して迎えに出るという彼を、彼女は、来るまで帰るのだから心配するなと押し止めた。深夜迎えに出るのは、せっかくよくなるかけている病気を、またぶりかえさせる怖れがあるとも言った。
しかし、今から思うと、あれは男の送られて来たので、夫に迎えに出られては、都合が悪かったのに違いない。
もし男がマイカーで送って来たとすれば、どこかにその軌跡が残っていないだろうか? 小山田は早速聞き込みをはじめた。」
聞き込みといっても、ただでさえもの寂しい場末のこのあたりで、そんな遅い時間まで起きている者はほとんどいない。聞き込みの対象は限定されて来る。まずその時間に起きている人間を探し出すのが、先決問題であった。
だが、そんな人間はなかなかいなかった。付近で最も繁華な駅周辺も、終電車が出た後は閑散としてしまう。まして彼の家は駅から少し離れた武蔵野の雑木林の散在する寂しい一角にある。同じ時間帯に付近をうろつきまわっても、誰にも出会わなかった。
小山田は、毎日深夜になると、自宅の周辺をうろつきまわった。それだけが今の彼の仕事になった。一度、パトロール警官の職務質問に引っかかった。夢遊病者のようにさ迷う彼の様子が、よほど奇異に映ったのであろう。警官は家まで送って来てからようやく得心した。
彼は警官にたずね返した。警官ならば、妻を送って来た車を見かけているかも知れないと思ったからである。
警官は、小山田から逆に奇妙な質問をされて面喰めんくらった。だが、警官にも心当たりはなかった。
2021/08/10
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