~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
不 倫 の 臭 跡 (2-03)
ヒントは、べつの方角からもたらされた。妻の私物が店に残されたままなので、それを引き取りにカトレアへ行った帰途、小山田は勤め帰りの人々と一緒に家に向かって歩いていた。駅の近くの道路ぎわでなにかの工事をやっていて、折からの夕方の激しい交通をいちじるしく妨げていた。車の流れが渋滞し、その間を歩道からあふれ出た人々が縫うように歩いていた。運転者はみないらいらして、クラックションがあちこちでえ合っている。
前を行く二人連れのサラーリーマン風態がこぼした。
「こんな時間に工事なんかはじめやがって」
「実際、いつもどこかで工事をやってるなあ」
「こんなラッシュ時を狙わずに、真夜中にやればいいんだよ。この間も家の近くで水道管工事があったが、真夜中にやったので、ほとんど影響をうけなかった」
「よほど急ぎの工事なんだろうな」
それにしても通行人の迷惑をちっとも考えていない。もし工事のために交通事故にでも遭ったら工事の施工者に補償してもらいたいな」
彼らの愚痴を聞くともなく聞いていた小山田は、一か月ほど前、真夜中ふと喉の渇きを覚えて水道をひねった時、断水していたことがあったのえお思い出した。
── あの頃水道工事をしていたのか ──
その瞬間、はっと思い当たったことがある。サラリーマンの会話がヒントになって潜在していた一つの可能性に思い当たった。
── 水道工事人が、見ていたかも知れない ──
小山田は翌日、市の建設課水道管理事務所へ出かけて行って、一か月前に彼の家のある町域ブロックで配水管の本管パイプ工事が行われていたことを確かめた。
彼はさらにその工事に携わった工事人を追った。K市の水道管理事務所から工事を請け負ったのは、市内の「岡本興業」という工事会社であった。
工事会社を訪ねた小山田は、責任者から、何人かの工事人の名前を聞き出した。小山田は執念深く彼らの工事現場や自宅へ出かけて行って、妻の写真を示し、工事中にこのような女を送って来た車か、男を見かけなかったかとたずねた。
彼らは好奇の目を光らせたが、いずれも心当たりがないと答えた。ここでせっかくの手がかりも切れた。だが小山田はまだ諦めなかった。
工事人には正規の社員だけでなく、出稼ぎや臨時雇いがいるかも知れない。彼らの中に妻を見かけた者がいる可能性もある。小山田の居住地へ来た工事班の中にも臨時雇いは数人いた。だが彼らは渡り工事人で、いずれも工事が終わった後は、割がよい・・仕事を求めてよそへ移っていた。その中の一人の消息がようやくつかめた。
小山田は藁にもすがる思いで、その渡り工事人を訪ねて行った。
「この写真のひとが、あんたの奥さんかねえ」
工事人は無遠慮な視線で写真と小山田を見比べた後、
「さあ覚えはねえねな。それであんたの奥さんがどうかしなすったのか?」
と露骨な好奇の色を浮かべてたずねた。小山田が最小限に事情を話すと、
「逃げた女房ってわけだな。そいつはあんたもいろいろときつい話しだね。それにしてもいい女じゃなええか、後を追いかける気持もわかるってもんだ」
と慰め顔になった。結局、何も得るところがんばく、小山田は気落ちしてこそを去りかけた。すると後方から追って来る者の気配があった。振り返ってみると、先刻の工事人だった。
「いまちっと思い出したんだけどよ」
小山田に追い付いた彼は、一呼吸入れてから、「あんたの奥さんかどうか自信はないんだが、おれがあの作業場にいた、先月の今頃真夜中の三時ごろに一人の若い女が車から降りたのを見かけたことがあったよ」
「本当ですか」
初めて引っかかった手応てごたえに、小山田は体を堅くした。
「うん、すっかり忘れたいたんだが、車から降り立って来てとき、あんまり綺麗だったもんで狐が化けたんじゃねえかと思った。もちろん暗い場所なので、顔形をはっきり見届けたわけじゃないが、作業灯の光の中に、白い顔がぼんやり浮かんで、ちょと凄味すごみがあったな。着ているものも、素人のようじゃなかったと、気をのまれてひやかしもしなかったけどよ」
「どんなものを着ていましたか?」
「うまく言えねえけど、スカートの上にもう一枚べつのスカートを穿いたようなすごく格好のいい服だったな」
それは、文枝がパーティ用にあつらえたパネルドレスのことであろう。彼女の気に入りのドレスの一つであった。勤めに出た当初は和服を着ることが多かったが、最近は洋服が多くなっていた。
それも小山田には、妻が男と逢っている時間を少しでも多く稼ぎ出すために、着付けに手間のかかる和服を避けているように思えたのだ。
2021/08/11
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