~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
不 倫 の 臭 跡 (2-04)
「その時、男は一緒にいませんでしたか?」
「さあ、いなかったと思うがね」
工事人はおぼろげな記憶を追う目をした。
「車の中には男は乗っていなかったのですか?」
「たしか、運転手だけだったな」
「ごんな車から降りて来たのですか? マイカーですか、タクシーでしたか」
もしマイカーなら運転手が文枝の不倫のパートナーということになる。
「マイカーじゃなかったよ」
「それじゃあタクシーだったのですね」
妻がタクシーから一人降りて来たのであれば、男は別の車に乗ったか、あるいは途中で降りてしまったのだろう。小山田はせっかく見つけた臭跡がみるみる薄れて行くのを感じた。だがまだそのタクシーを追いかけられる。
「いやタクシーではなかったぞ」
「それじゃ何だったのです?」
「あれはハイヤーだね。運転手がドアを開けてやっていた。車もタクシーより大型で上等だったよ」
「ハイヤー」
「ああ、いきなりハイヤーが目の前に停まって綺麗な女が降りて来たもんだから、狐かと思ったんだ」
ハイヤーで帰って来たとは初耳であった。もちろん店が出した車ではない。とすると、男が出してくれたのだ。ハイヤー会社からたぐられるのを恐れて、文枝は家から少し離れた場所で車から降りたのであろう。
「そのハイヤーは、どこの会社のものかわかりませえんか」
小山田は一縷いちるの希望を見出した思いだった。
「女の方ばかり見ていたからねえ」
工事人は面目なげに顔をつるりとでた。
「ナンバーの一部とか、会社のマークとか、何か覚えていることはありませんか」
小山田は必死に追いすがった。
「マ-クと言えば、あれが会社のマークなのかな、ドアに亀の印が付いていたっけ」
「ドアに亀の印が」
「ちらりと見ただけだったので、よく覚えていないけど、たしか亀のような形だったなあ」
「間違いありませんか」
「そう言われると、自信ないんだよ。なにしろ夜目のうえにほんのちらっと見ただけなんだ」
工事人から引き出せたことはそれだけであった。だが何もなかったこれまでに比べて、これは大きな収穫に違いなかった。直ちにカトレアに問い合わせると、そこでは亀のマークを付けたハイヤーを使ったことはないという返事であった。
ハイヤーは、男が妻に付けた公算が、ますます大きくなった。小山田は電話帳で見当を付けて『東京都ハイヤー事業協会』へ問い合わせた。彼の見当は的中して、そこで亀の印をつけたハイヤーは、池袋に本拠をもつ『亀の子交通』の車であることがわかった。
彼は直ちに、亀の子交通の本社へ出かけて行った。池袋四丁目の川越街道に面したごみごみした一角に、ハイヤー会社はあった。タクシーも兼営しているらしく、駐車場には整備中のタクシー車と、黒塗のハイヤーが数台見える。いずれのドアにも亀のマークが付いている。
「一か月ほど前にK市の宮前町ねねえ、週二回ぐらいの割合ですか」
対応に出た中年の係員は、胡散うんさ臭そうな目を小山田に向けた。
「しかし私どもはお客様のことはいっさい話さないことにしているんですがねえ」
係員は、まったく好意のない表情で、小山田をうかがった。
「送ってもらったのは、私の家内なのです。数日前に突如失踪しっそうしてしまったので、その行方を探しているのです。車の依頼主に会って聞けば、なにかの手がかりが得られるかも知れません。お願いです、こちらにはご迷惑はかけません。一つ調べていただけませんか」
「奥さんが失踪?」
その言葉が相手を少し動かしたらしい。
「ちょっと待ってください。責任者に相談してみますから」
係員は、やや協力的になって奥へ引っ込んだ。待つ間もなく、五十年輩のでっぷりした男を引っ張って来た。小山田はもう一度用向きを繰り返した。
「そういうことなら、お教えしてもよいでしょう」
男はあっさりとうなずいた。責任者の許可が出たので、係員は分厚い帳簿を、落ち出して来て、頁を繰りはじめた。表紙に「お得意先ご用名簿」と墨で書かれてある。
「一か月前、深夜三時ごろ、K市宮前町までですね。どこから乗せたかわかると早くみつかるんですがな」
「生憎、それがわからないんです。一か月前にお宅の車を見かけた者があるというだけで、最近も使っているかも知れません」
「週二回というと、だいたい曜日も決まっていたのですか?」
「それも決まっていません。ただ土曜日ではありませんでした」
日曜は店が休みだったし、土曜日を避けたのは、相手が家族もちで、時間の都合をつけにくかったからかも知れない。
2021/08/12
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