~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
不 倫 の 臭 跡 (2-05)
「K市宮前町ね。あ、これかな」
係員の指先が、ふと停まった。
「ありましたか?」
小山田は、高くなりかける胸の鼓動を抑えるようにして、頁をのぞき込んだ。
「九月十三日午前二時三十分南大塚三丁目の銀杏下いちょうしたからK市の宮前町まで、一台頼まれてます。ああ、このお客さんだったら、よく頼まれますよ。注文を受ける時は時間と、迎えに行く場所に注意するもんですから、K市宮前町と言われてもすぐに思い出せなかったのです」
「いちようしたとは?」
「南大塚三丁目にある大きな銀杏の木の下です。ちょっとした目印になっていて、車の待ち合せによく使われるんです」
「それで依頼主は?」
「いつも女の人から電話がかかって来て、川村と言ってました」
「住所は言わなかったんですか」
「言いません。銀杏下に午前二時に車をよこすように指定するだけでした」
「しかし、依頼主の住所がわからなくては、後で料金の請求はどうするんですか?」
「その都度キャッシュでした」
「キャッシュ?」
小山田は、不意打ちを食わされたような気がした。タクシーと違って、ハイヤーを現金払いするとは考えていなかった。文枝をハイヤーで送らせた後、男が料金を払っていたとばかり思っていたのである。だが男がハイヤー代を彼女に与えることも出来るのだ。
「乗ったのは、妻が、いやその川村と名乗った女が一人だけでしたか?」
「これには一名様としるしてありますがね、ちょうどいい、これを担当した運転手がいま時間待ちで詰所にいますからここへ呼びましょう」
係員は、事務所の窓から首を出して、大須賀君、ちょっとこっちへ来てくれとどなった。すぐに制服らしい紺の背広を着た四十前後の自直そうな男が事務所へ入って来た。
「こちらのかたが、大塚の銀杏下からK市まで運んだ川村さんについて、聞きたいことがあるそうだよ。こちらは川村さんのご主人だそうだ。どうぞこの男から直接聞いて下さい」
係員、小山田と大須賀という運転手の間に立って言った。小山田はまず大須賀に妻の写真を見せた。大須賀の面にすぐに反応が現れた。
「ああ、この方が川村さんですよ。川村さんがどうかしたのですか?」
小山田は手短に事情の説明を切り返して、
「それで、家内は銀杏下から乗る時いつも一人だったんでしょうか? だれか男が一緒について来たようなことはありませんか」
「さあ、男の方の姿は見かけませんでしたね、いつもお一人でしたよ」
「どこから来たかわかりますか?」
「駅の方から来ました」
「予約した時間どおりに来ましたか?」
「ふぁいたい時間どおりでしたね。遅れても精々十分ぐらいでした」
「どうしてそんな所へ車を呼んだんでしょう?」
「さあ・・・それはたぶん・・・川村さんのいた所まで車が入れないか、わかりにくい場所だったのか、それとも・・・」
と言いかけて、大須賀運転手は口を濁した。小山田は、彼の濁した言葉の先が読めた。それは妻が車に直接迎えの来られては都合の悪い場所にいたからではないのか。
迎えに来られては都合の悪い場所 ── それは、人目を忍ぶ情事の場所である。
小山田は、ふと思いついたことがあった。
「一週間ほど前、そう、九月二十六日の夜、同じ時間帯に同じ客から同じ様な注文が出ていませんか?」
九月二十六日は、妻が失踪した夜である。帳簿を繰るまでもなく大須賀が憶えていた。
「ああ、その夜でしたら、私がお迎えに上りましたよ。川村さんからいただいた一番新しいご注文なので、よく憶えています」
「銀杏下からKまで運んだのですか?」
小山田は気負い立った。
「そうです、午前二時頃お迎えに上がって、二時半頃K市のいつのの場所までお送りしました」
「いつもの場所とはどの辺ですか?」
「宮前町です。鳥居の前でした。なんでもそこからお宅まではすぐだからと仰って」
運転手は、その先の言葉を濁した。きっと文枝が自宅まで乗りつけるのを嫌っていた気配を悟っていたからであろう。「鳥居前」から家までは歩いていくらもない。すると彼女は、そこから家までの間で姿をくらましたことになる。
小山田は、そこに男の意志が働いてるに違いないと思った。男は、文枝と別れた後、なにかの事情が発して、彼女を別の車で追いかけて来た。
家に向かって歩いていた文枝に追い付き、自分の車に乗せて、どこかある場所に連れ去ったのだ
── ともかく、大塚の銀杏の下近くに、彼らの不倫の巣がある。──
小山田は、シャープな猟犬のように、また一つ新たな臭跡を嗅ぎ付けていた。
2021/08/12
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