~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
不 倫 の 臭 跡 (3-01)
彼はその足で大塚へ行った。たまたまあった亀の子タクシーの空車に乗せてもらって、二十分ほど後には、問題の「銀杏下」に立っていた。
なるほど大きな銀杏の木だった。これなら、かなり遠方からも目印になるだろう。高さは約三十メートル、幹まわりは三、四メートルほどありそうである。小山田は、樹齢三百年は下るまいと推測した。かたわらに都の天然記念物指定の掲示板が立っている。小山田の推測通り、推定樹齢約三百年と表記されてあった。
木の下は空地になっていて、格好の無料駐車場にされている。駐車禁止の表示がないので、これではせっかくの天然記念物も排気ガスに傷めつけられてします。
文枝は、この木の下に車を持って来るように亀の子交通に指示した。ということは、彼女がこの近くから来たことを示す。情事の時間を出来るだけ稼ぎ出すために、またその余韻よいんによる火照ほてりをなるべくまさないためにも、巣は近ければ近いほどよい。
「妻は、駅の方角から来た」
車から降り立った小山田は、大須賀運転手の言葉を反芻はんすうした。駅の方へ向かう道すじは一本しかない。彼はためらわずに、そちらの方角へ向かって歩き出した。> した。駅の方へ向かう道すじは一本しかない。彼はためらわずに、そひらの方向へ向かって歩き出した。
駅に近いわりには閑静な一角である。サラリーマンの小住宅の間に、小さなやしろがある。住宅に挟まれて、煙草屋と、鮨屋すしやがあった。ちょうど鮨屋の前に岡持おかもちを提げた出前がバイクに乗って帰って来た。その姿を見て小山田は、ふと思いついたことがあった。
情事の前後に軽い飲食をすることが多い。その種の旅館では、客の不時の注文をいちいち自分の所で調理せず、外の食い物屋から出前させるかも知れない。
「近くにお宅がよく出前に行くホテルや旅館はありませんか」
「店の中へ入りかけた出前もちを小山田は咄嗟とっさに呼び止めた。
「今ちょうど水明荘へ届けて来たばかりだよ」
にきびを顔いっぱい吹き出させた若い出前もちは気さくに答えた。
「すいめいそう?」
「すぐそこの横町を折れた所にある連れ込み旅館だよ」
「この近くに、水明荘の他に旅館やホテルはありませんか?」
「さあ、おれが知ってるのは、水明荘だけだな。でもよう、どうしてそんなことを聞くんだよ」
出前もちは急に不審の色を浮かべた。
「いや、ちょっと聞いてみたかっただけです」
小山田はそそくさと出前もちの前から離れた。その後ろ姿をきょとんと見守っていた出前もちは、首を傾げながら店の表戸を開いた。
よく観ると、訓えられた横町の入口に立っている電柱に『旅荘水明荘』の看板が見えた。横町からさらに奥まった路地へ折れると、玉砂利を敷き詰めた前庭と植込みをあしらった奥に、秘密めいた雰囲気で水明荘が在った。
これでは車を玄関へ横づけに出来ない。いわゆる連れ込み旅館のけばけばしさはまったくない。それがかえって人目を忍ぶ情事の場所の雰囲気を醸し出して、昼日中ひるひなか入って行くのには後めいた思いにさせられる。ここからなら銀杏下まで五分とかかるまい。しかも横丁と路地のツークッション置いているので、運転手にどこから来たか悟られにくい。
── とうとう見つけたぞ ──
小山田は、玄関の前に立って、深呼吸をした。妻の不倫の巣をついに探し当てたのだ。
彼は失踪した妻が、男とともに現にこの旅館の奥に潜伏しているような気がした。玄関踏み込みの床材は那智黒なちぐろの洗い出しで、さわやかに打ち水がしてある。数寄屋すきや風の玄関の奥は、複雑に屈折していて内部を見通せない。
案内をうても、しばらくは無人のように人の気配が生じない。何度か呼ぶとようやく奥の方からかすかな足音が伝わって来た。
やがてつむぎの和服をまとった三十前後の仲居が出て来た。なにか水仕事でもしていたとみえて、前掛で手を拭いている。
「いらっしゃいませ」
仲居は、玄関に一人で立っている小山田を見てもべつにいぶかしげな表情を見せない。ここで落ち合うカップルも多いのであろう。
「お連れ様とお待ち合わせでございますか」
案の定、仲居は聞いた。
「いや、ちょっと尋ねたいことがありまして」
仲居の早合点を制して、小山田が用件を言おうとすると、相手はたちまち客向きの愛想のよい表情を警戒の固い殻でかためてしまった。小山田を風紀係の刑事かなにかと間違えたらしい。
「実は、家内を探しているのです」
相手の警戒心を解くために、小山田は出来るだけさりげなく切り出した。
2021/08/13
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