~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
底辺からの脱出 (1-01)
「日本のキスミーへ行く」という言葉を残して、ジョニー・ヘイワードは旅発たびだった。そのその旨を東京へ伝えると、日本の警察は満足したのか、それともその意味がわからなくて困惑したのか、沈黙している。
ニューヨーク市警は、東京警視庁の依頼を果した。── と一応思った。この事件は、これでケリがついたのだ。イーストハーレムを管轄する二十五分署では、連日事件が起きる。遠い極東の国の首都で死んだ一人の黒人のことは、ハーレム川に浮かんだ泡沫ほうまつのように速やかに忘れ去られた。
ケン・シュフタンも忘れた。新たに続発するさまざまな事件が、彼に一つのことにいつまでもかかづらっていることを許さなかった。もともと上司から命ぜられるままに、気乗りうすに調べたことである。熱意のかけらもなかった。
ケンにはニューヨークは、もはや末期的症状を示しているとしか思えなかった。
マンハッタン地区に林立する摩天楼のすぐそばに、ハーレムやブルックリンのスラムがある。アメリカの富と繁栄を象徴するように超高層ビルがそれぞれの意匠と軒高をもってけんを競うかたわらに、ハーレム、ベッドフォード・スタイベザント、ブラウンズビル、南ブロンクスの貧民街では取り壊し寸前の廃屋のような建物の中に人間が生活している。
それはすでに人間の生活などというものではなかった。壁は崩れ、屋根は傾き、窓ガラスは割れている。ガラスを失った窓にはブリキ板をあてがっている。街路にはごみくずと汚物があふれ、ねずみと野犬がわがもの顔に横行している。赤ん坊がねずみに食い殺され、幼児が野犬に襲われることも珍しくない。ブラウンズビルでの新生児の死亡率はニューヨークで最高である。
金が払えないので、ガス、水道、電気を停められ、人々は消火栓をたたんき壊して水をむ。そのためにこの辺りから火事を発すると、消防車が役に立たない。
食い詰めた犯罪者、アル中、麻薬中毒患者、売春婦がここを巣窟そうくつとしてニューヨーク全市に害悪をばら撒いている。
ニューヨークには、あらゆる種類の「世界一」が肩を並べている摩天楼、ウォール街、ジャーナリズム、教育施設、コングロマリット、文学、美術、音楽、演劇、ファッション、料理、さまざまな娯楽・・・世界の一級品が集中して、ますますその上限を伸ばしていくのに比例して、悪も暗渠あんきょの底深くまがまがしい触手を伸ばしていった。殺人、放火、窃盗、強姦ごうかん、売春、麻薬を代表に、ありとあらゆる種類の犯罪が行われている。
ニューヨークはいまや上限と下限が開きすぎて、その矛盾の中で苦悶くもんしているのだ。
人々はニューヨークの巨大さの中に自分を見失い、焦燥し、求めるものが何かはっきりわからないままにただあがいている。ニューヨークの美は、すべて醜悪なものに裏打ちされている。
街では毎日なにかのデモが行われている。街角では誰も聞いていないのに、誰かが何かを演説している。
デモのない日はパレードがある。全人口の十五パーセントに当たる百二十万の生活保護者のかたわらで、何かの祭りが行われている。
人種の坩堝メルディングポットと言われるこの大都会には世界のあらゆる国から自由と成功の機会を求めて移民が集まって来た。
イギリス、アイルランド、スカンジナヴィア、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、ロシア、ハンガリー、アラブ、ギリシャ、中央アジア、プエルトリコ、そして黒人と、ありとあらゆる人種が、このニューヨークという巨大な都市を“合成”している。
彼らは、人間の集まる所には、成功の機会も多い筈だと思ってやって来た。あるいは故国を食い詰めて、新たな生活の方途を求めて、はるばる海を越えて来た。
だが、成功はほんの一握りの人間のためにしかなかった。そうであればこそ成功と言えるのである。「一人の勝者に千人の敗者のうごめく街」と言われたニューヨークの貧富(勝敗)の差は、ますます大ききなりつつある。
人間が多ければ多いほど、競争は熾烈しれつで、後から来た者の入り込む余地はなかった。
移民たちの求めた自由は、飢えることの自由でしかなかった。そしてそのことに気が付いた時は遅かった。彼らは底なし沼のようにニューヨークの穢土えどの中にしっかりととらえられていたのである。穢土の底に欲望だけが、メタンガスのようにふくれ上がり、行き場のない挫折ざせつのを蓄えた。この瘴気は、いつ発火して暴動に爆発するかわからない危険なエネルギーをはらんでいる。社会に害悪しかもたらさない危険なエネルギーである。
二十五分署には五十一人の刑事と七人の警部がいる。この中、半数以上が「バイリンガル」と呼ばれるスペイン系の警官である。一直ワンシフト十一人の、五直に分かれ、早番、中番、遅番、夜勤の四交代制を敷いているが、明けや、公休のも満足に取れないほど、事件に追いまわされる。
それにもかかわらず、アメリカ最大のスラム、ハーレムとイーストハーレムを管轄する二十五分署や二十八分署は若い警官に人気があるのは、非行青少年数、犯罪発生件数、麻薬使用量がきわまて高く、凶悪犯人にまみえる機会が多いので、昇進しやすいからである。一人の刑事が常時平均十件の事件を担当し、検挙率は五十パーセントである。
だがケンが二十五分署に配属されたのは、昇進チャンスをつかむために志願したからではなく、この土地の出身であったからである。
2021/08/14
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