~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
底辺からの脱出 (1-02)
今日は遅番で午後二時から十時までの勤務であった。その間にも121ストリートで喧嘩があり125ストリートで二件のひったくりと、一件の空巣があった。
すでにニューヨーク市警では空巣やひったくりは犯罪とは見なしていないと言ってもよい、だがこれらがもっと凶悪な犯罪に発展する危険があるので、届け出があれば、調べに行く。
一応これらの取り調べをすませて、やれやれと思う間もなく、今度は若い女が酔っぱらって裸になって歩きまわっているという通報が入った。
「若い女がストリップだと? やらせておけばいいじゃねえか」
もう間もなく勤務が終わるケンは毒づたが、通報が来た以上、放っておくわけにはいかなかった。
行ってみると、麻薬患者だった。ヤクが切れて、禁断症状に苦悶している間に、衣服を脱いでしまったのだ。
パトカーへ引きずり込んで、署へ連れて来る。二十二、三のプエルトリコ系の若い女である。その若さで、ヤクと淫売いんばいすさみが全身をむしばんでいた。
肌は乾燥して蒼白あおじろくなっている。手足の露出した部分には、いたる所に注射の跡が見える。瞳孔ひとみは開き、あらぬことを口走る。暴れまわるので、ケケンは署につくまで女を押さえつけていなければならなかった。
この女の中毒は常習性で、すでに何度も引っ張られている。常習性の治療は困難で、もはや精神病院にでも拘禁しなければ、彼女から麻薬を断つことは出来ないだろう。
その場限りの治療で釈放されると、薬欲しさに売春をする。そにうちに売春だけにとそまらないで、薬を手に入れるためには、何でもするようになる。
麻薬中毒者は、人間の形をしただけの野獣である。彼女がまだ売春の域にとどまっているのは、その体に女としての“商品価値”が残っているからである。
だがケンは、全身注射針の跡だらけの女の形骸けいがいになっているような女を買う男がある現実に、胸が苦しくなった。買う方も底辺の人間である。彼らはやり場のない性欲を、女のむくろを買って処理しているのだ。女を買っているとは思っていないであろう。女のいない戦場で、兵士が豚や羊を相手に欲望を処理するように、メスの獣を買ったつもりにちがいない。
── どちらも獣だ ──
ケンは、苦しいものをみ下すようにつぶやいた。だが麻薬中毒は、底辺から次第に社会の上流へ向かってその無気味な触手をのばしつつある。
女を麻薬取り締まりの係に渡して、ケンの長く苦しい一日の勤務は終わった。これからブロンクス区のアパートに帰って、眠るのだ。そこに彼は一人で住んでいる。一度結婚したことがあるが、ケンが凶悪犯人を追いかけている間に、妻は若いひまのある男を追いかけて家を出て行ってしまった。それ以来、一人暮らしをつづけている。最近では一日の疲労を一夜の眠りで回復できない。頑強なだけが取得の身体と思っていたが、いつの間にか老いが体のしんよどんで来たようであった。孤独が老化を早めているのかも知れない。
二十五分署は、イーストハーレム地区の中央部、東119ストリート120番地にある。警察官でも勤務が終わった瞬間から、この地区から一刻も早く逃れ出ようとする。治安と秩序を維持するために戦う立場にある警官たちが、危険な市内から、安全を求めて競って家族と住居を郊外へ移すようになった時から、ニューヨークの荒廃は、いっきょに増幅したのだ。それは社会正義の敗北であった。
警官を信用しなくなった市民は、自警団を組織した。金のある者は、ガードマンを雇った。大企業のビルはガードマンだらけになった。街を歩くと、警官の姿は一人も見えないのに、ガードマンはやたらと目につく。
それは警察の敗北の印であるにもかかわらず、ガードマンの方が給料がいいからと警官を辞めていく者すらある。
去年一年におけるニューヨークの殺人件数は千三百五十一、強姦ごうかん千八百三、強盗四万九千二百三十八、窃盗二十九万三千五十三、警官もよく殺され、昨年の殉職者は五名である。一日に三人以上が殺され、約五人の女性が犯されている勘定になる。
警察署の中でも、ものが盗まれるので、私物は、かぎつきのロッカーに入れておかないと安心出来ない。署の内部にまで野良犬が入って来る。「警察でガードマンを雇うか」という冗談が笑われずに通用するほどであった。これでは警察官もニューヨークから逃げ出したくなっても不思議はない。
2021/08/16
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