~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
底辺からの脱出 (1-03)
ケンは署の建物から出た。紙くずと紙コップが街路を舞っている。まるで休日後の行楽地の朝のように汚れているが、誰もその汚れを気にしない。ケンは地下鉄の駅まで歩く。ハーレムでは車は役に立たない。警察署の前に停めておいても、一晩のうちにポンコツにされてしまう。タイヤは切り裂かれる。アンテナはへし折られる。ヘッドライトと窓ガラスは叩き割られる。燃料タンクの中に砂を投げ入れられる。ケンは二十五分署勤めになってから車を放棄していた。道路ぎわに焦げた車の残骸があった。外から来た者が駐車している間に火を放けられて焼かれてしまったのだ。
「サー、ギミーダイム(10セント)
地下鉄の入口にたむろしていた子供が、ケンに手をさしのべた。その手を払いのけて、階段を下りる。背後から子供が煙草をくれと言いなおしている。地下へ下りる階段には、麻薬患者かアル中らいいのが、生きているのか死んでいるのかわからないようにうずくまっている。だがこの死人のような人間が、恐るべき犯罪予備軍なのだ。
下から黒人の若者の一団が奇声をあげながら上って来た。彼らはケンの姿を見ると、奇声を止め、白い目を向けた。この界隈かいわいの地下鉄で白人の姿を見かけるのは珍しいからだ。
ケンは、彼らをまったく無視して通り過ぎた。彼らはケンの正体をあらかた察知している。一人が横を向いてつばを吐いた。ケンの鋭い一瞥にあって、急に歩度を速めて階段をかけ上った。
いずれは何かの犯罪を犯して本署でまみえることになるチンピラだと、ケンは思った。
この界隈の地下鉄構内に入るには一種の覚悟を必要とする。公衆電話の六割は夜の中に叩き壊されてしまう。修理なおしてもなおしても、壊されてしまう。出勤する時には使えた電話が、帰る時には役に立たなくなっている。地元のケンすら果たしてどの電話が健在なのか把握できない。ここで何かの事件に捲き込まれた場合、連絡の手段をもたない。
ホームへ入る。出勤して来る時に見た酔客の反吐へどあとがそのまま残っている。誰も掃除をせずに放置している間に、乾燥し、ほこりとなって地下鉄の風圧によって飛び散ってしまうのだ。古い汚物が乾ききらない間に、新たな汚物が吐き散らされる。地下鉄の構内では用心して歩かないと、それらの汚物の中に靴を踏み込んでしまう。トラッシュボックスがあふれたまま倒れている。
電車はなかなか来なかった。見上げたホームの時計には、「故障」の貼紙はりがみが貼られていた。ケンは思わず舌打ちした。もう一か月も前からその時計は壊れていたのだ。ホームにあるガムの自動販売機も壊れている。
ようやくうす汚れた電車が来た。車体も車内も落書きに塗りつぶされている。乗る者も降りる者も黒人が圧倒的に多い。プエルトリコとイタリア人がそれに次ぐ。電車はいていた。乗客は、それぞれの距離を置いて、黙りこくってすわっている。話し合っている者はない。電車が走りだすと、その騒音が車内の静寂をいっそう深めた。うす暗い裸電球が時々息をしながら貧弱な光をいている。通路を吹き抜ける風に乗って新聞紙が車内を舞った。乗客の靴の先にそれがまといついても意に介さない。
相互の極端な無関心の中に、乗客たちは放心している。一人一人がみな孤独だった。
大都会の中の救いようもない孤独が、乗客たちをわしづかみにしていた。それでいながら、それを実感する余裕がないほどに生活に疲れている様子であった。
車両の前部に坐っている老いた黒人は、いまにも座席からずい落ちそうな格好で眠っていた。手に安いウイスキーのボトルを握っている。中身が底の方にわずかに残っているらしい。手首からボトルが抜け落ちそうになると、一瞬、ハッと我に返って握りしめる。
つづいて、中年の黒人の主婦、どこかのビルの雑役夫でもやっているのか、疲労を全身ににじませて、車体の振動に身を任せている。少し離れて、母子づれの二人のプエルトリコ人が身を寄せ合うようにして坐っている。子供は八歳前後の少年、靴磨き用具を入れた箱を肩にかけている。就学年齢に達しているはずなのに、貧困のために学校へ行っていないのだろう。おそらく英語を話せまい。
彼らにとっては今日という一日を生きることに精一杯で、明日のために教育を受ける余裕はないのである。
次に売春婦らしい黒人の女、年齢不詳・・・ケンは、職業柄、下車駅へ着くまでの間、乗客たちをそれとなく観察する。それはすでに習性のようにみついてしまった。
そこまでいつものように観察を進めていると、突然、忘れたと思っていたことが蘇えった。ケンは、それが意識の表に浮かび上がった時、びっくりした。そんなことがまだ意識の底に残っていたのに驚いたのである。
── トウキョウで殺されたジョニー・ヘイワードは、その日稼ぎのトラックの運転手だった ──
「そんな男が、どうして日本へ行く金を持っていたのか?」
その疑問が燐光りんこうを発してケンの頭に中で明滅した。
2021/08/17
Next