~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
底辺からの脱出 (2-01)
アメリカの底辺は黒人によって支えられている。自分の努力によって高い教育を受け、底辺から脱出して行く者もあるが、大多数の黒人は人生のおもりにつながれた底辺の終身犯として一生を終わるのである。
汚物処理夫、港湾荷役、デパート荷物発送係、トラック、タクシーの日雇い運転手、ホテル、バーのドアマン、ボーイ、死体焼却夫、死獣解体夫、その他未熟練単調労働など白人が敬遠する職種か、白人だけでは人手が足りない分野に辛うじて職を得ている。しかもこれらの仕事は、たいてい週給百ドル未満n低賃金である。ようやく仕事にありついても、満足に家族を養っていけない。低賃金であくせく働いて、食うや食わずの生活を続けるよりも、一家の主人が蒸発したこととして母子家庭として保護を受けた方が楽なので、母子家庭の“偽造”が増える。
十年毎に行われるアメリカの国政調査の1970年版によれば、ニューヨークの全人口八百万のうち、黒人人口は百七十万である。次いでプエルトリコ人が八十万人で、その他の有色人種を加えると、市民の四十パーセントが非白人になる。
黒人とプエルトリコ人は、経済と教育において、白人に比べてはるかに劣っていることを国勢調査は示している。白人家庭の平均年収一万ドルに対し、黒人は七千ドル、プエルトリコ人は五千五百ドルとなっている。大学卒業率は、白人十三パーセントに対し、黒人が四パーセント、プエルトリコ人わずかに一パーセントである。
これが“貧窮基準ポバティスタンダード(70年現在四人家族年収四千七百ドル以下)となると、白人九パーセントに対して、黒人二十五パーセント、プエルトリコ人三十五パーセントと、一挙に逆転する。
さらに母子家庭比率は白人十四パーセントに対して黒人が三十二パーセント、プエルトリコ人二十九パーセントとなっている。
ニューヨークの百二十万人の生活保護者の五分の三を黒人とプエルトリコ人が占めている。非継続的未熟練労働でも仕事のある者は幸いで、大多数は職がなく日中から安酒場に群がり、街路にうずくまって呆然ぼうぜんと過ごす。
日雇いのトラック運転手だったジョニー・ヘイワードが急に思い立って日本へ行けるほど金持ちだったとは思えない。ニューヨークの黒人は、自分を閉じ込めたスラムからの脱出を夢見て、貧困と人種差別にうめきながら、一生スラムにうごめrt>いて過ごすのである。彼らにとって海外旅行も、一種の脱出である。
ヘイワードがその脱出を成し遂げた。脱出は彼にとって死をもたらしたが、脱出前にそれを予測していたわけではあるまい。
トラック運転手の週給は、精々百ドルぐらいだろう。一か月七百ドル得るには違反の乗務をして稼がねばなるまい。これだけの収入ではその日その日の生活を支えるのに精一杯で、とても日本へ行く旅費を蓄えるゆとりはない。
その彼が、突如、まるで何者かに追い立てられるように旅立った。
日本へ行く動機もさることながら、彼はその旅費をどこから得たのか?
いったんカンの胸に点じた疑惑の火は、次第にその勢いを強めてきた。プエルトリコの母子は南ブロンクスのメルローズで降りて行った。乗客が黒人からプエルトリコ人に交代した。このあたりは、プエルトリコ人の居住地である。静かだった車内に巻き舌のスペイン語が弾んだ。
「こいつは調べてみる価値がありそうだ」
ケンは電車が下車駅に近づいた時、一つの決心をした。我ながら、忘れたはずの一人の黒人の客死について、どうしてこれほどの関心を持つのか不思議であった。日本の警察の熱意に打たれたわけではない。強いて言うならば、ジョニー・ヘイワードが日本へ行ったことに興味を引かれたからなのかも知れない。
ジョニー・ヘイワードについて少し調べてみたいとケンが言い出した時、警部のケネス・オブライエンは呆れたような顔をした。
「もうすんだことだ、何をほじくろうと言うんだ?・・・」と問いかけたケネスはケンの表情に貼り付いた真剣さに打たれた。それは一つの迫力をもって、オブライエンの問いかけを封じてしまった。
── こいつが、こんな顔をして食いついたら、止めたところで離さない ──
ケネスは、そのことをこれまでの経験から知っていた。上司には平気で楯つくし、捜査の行き過ぎもあちこちから指摘される。オブライエンがかばわなかったらとっくにお払い箱か、捜査の第一線から退けられていただろう。
扱い難い部下であるが、実戦で叩き上げた捜査のカンと、地元育ちの土地カンは、署の屈強な戦力になっている。いつも目立たない所の居るが、こういう刑事がニューヨークの警察を支えているのである。サラリーマン根性の警官の多くなった今の警察で、ケンのような人間は貴重な存在であった。
しかし、捜査の経験もろくになく、理論だけで武装している幹部連には、ケンの組織から逸脱した部分だけが目につく。彼らの目には組織の忠実な歯車になって動いてくれる者が優秀に映るのである。
「あまり派手に動いて、おえら方ににらまれないようにしてくれよな」
ケネスが一本くぎを刺したのは、そのための配慮である。
ケネス・オブライエンの許可を得たケンは、早速行動に移った。
2021/08/18
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