~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
底辺からの脱出 (2-02)
ケンは一人の人間を訪ねようとしていた。その人間は、ライオネル・アダムズという大層な名前と、ニューヨーク・インタナショナル・シティ・バンク貸付審査総括統合部長といういかめしい肩書を持った大物ビッグショットである。
ケンはライオネル・アダムズという人物についてよく知らない。まったく知らないといってよかった。すぐ会えるものと思って気軽に面会を申し込んだところ、実に一か月も先の日を秘書に指定された。これでは仕事にならないので、警察の捜査にとって必要なのだと強引に押した。その結果三日後の今日、午後一時に昼食の為自宅に帰った折に会うという約束を取り付けたのである。
これでケンは相手の人物に対して認識を改めた。
インタナショナル・シティ・バンはアメリカで預金量常にベスト5を下らない巨大な銀行であった。ニューヨークの経済はこの銀行を抜きにしては語れないほどに、大きな地歩を占めている。
ニューヨークの経済を牛耳っているということは、アメリカの、いや世界の金融を支配しているということw示す。アメリカの経済政策を決定するワシントンに対しても大きな影響力を持っている。
その銀行の実力者、アダムズに隠居ハーミットに会うようなつもりで面会を申し込んだケンの認識が甘かったわけである。
「十分とは刻みやがったな」
アダムズの家に向かうパトカーの中で、ケンはいまいましげにつぶやいた。それがアダムズから与えられた面会時間なのである。それすら、秘書がふつうは五分なのだが、警察の方なので特に十分にしたと恩着せがましく言ったものだ。
ラジオカー(パトカー)は、マンハッタン北部から五番街を南下して、セントラルパーク沿いの超高級アパート街を走っている。ここは世界の富豪が集まっている所だ。
戦災地のようなハーレムと目と鼻の距離に、およそこの世で考えられる最高のぜいをつくした超豪華アパートが立ち並んでいる。これもニューヨークの多面性を物語る一対のコントラストである。
ライオネル・アダムズの住居は、セントラルパーク東側の86ストリートの面した三十階建てアパートの最上層にある。ニューヨークの中心部にありながら、セントラルパークの豊かな緑のおかげで、空気がさわやかである。
「ハーレムとは、空気からして違ってやがる」
ケンは、また吐き捨てるようにつぶやいた。自らスラムに生れ、下級警察官として、長い間下積みの生活をして来たケンは、富豪にどうしても親しみを持てないのである。
彼はコミュニストではないが、富の極端な偏在を見ると、能力や努力の違いによらないアンフェアな要因が働いているように思えてならない。
「ここらの住人は、自分の吸う空気まで、金を出して買っているんですよ」
パトカーを運転して来たマグーという若い警官が言った。彼もスペイン系に黒い血が少し混じっている。
「すると、おれたちもここへ来ると住人の買った空気を只で分けて貰っているわけだな」
「そういうことになりますかね」
マーグと話しているうちに目指すビルの前に着いた。
「よし、この辺で待っててくれ。しぐにすむ」
とにかく十分しか与えられていないのだ。車を降りたケンは、真っ直ぐにビルの玄関へ入った。そこは厚い絨毯じゅたんが敷き詰められ、一流のホテルのロビーのようだる。ホテルと違う所は、フロントがなく、無人の豪華な空間がゆったりと広がっていることである。
そこはエレベーターホールになっていた。ケンがエレベーターに乗ろうとしてインジケーターを見ると、いずれも二十九階までの表示しかない。アダムズの住居は三十階と聞いている。二十九階までエレベーターで行って、そこから階段を上るのだろうかと考えながら、ふと転じた視線に、「ライオネル・アダムズ・オンリー」と表示されたドアが見えた。
2021/08/18
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