~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
底辺からの脱出 (2-03)
専用リフトを持ってやがる」
ケンは、ますます反感をつのらせて、開扉ボタンを押した。すると搬機ケージの上方の小窓から声が落ちて来た。
「あなたはどなたですか?」
「二十五分署のシュフタン刑事です。一時の約束があります」
ケンが答えると、目の前のドアがするすると開いて、「どうぞお乗り下さい」と声がうながした。きっとケンの姿は、どこかに据えられたテレビカメラによって観察されているのだろう。
ケージに乗り込むと、ドアは自然に閉まった。ケージの中まで、靴が埋まりそうな絨毯が敷き詰められている。柔らかい音楽が、どこからか流れて来て、ケージ内の狭い空間を満たした。ケンは別世界に運ばれて行くような気がした。
音楽に聞き入る余裕もなく、ケージは停まり、今度は反対側のドアが音もなく開いた。ケンの目の前にはまさに別世界があった。
ケージの前には、タキシードを着た執事が恭しく頭を下げている。執事が迎えた背後には、噴水が多色の水を噴き上げている。天井から吊り下げられたクリスタルガラスのシャンデリアと、噴水自体の中に特別の照明の仕掛けがあって、噴き上げる水の色をさまざまに変えているらしい。
執事があたかもその噴水の中に立って出迎えたように見える。絨毯はさらに厚く、靴音を完全に吸い取る。五番街の騒音も、ここには全く届かない。
どこからか花の香りが漂って来た。噴水の奥に屋内花壇があった。ここはニューヨークの喧騒けんそうから切り放された高雅な小宇宙であった。
「ようこそお越しを、ミスター・アダムズがお待ちしております」
執事は切り口上で言うと、噴水の脇を伝って奥へ導いた。花壇にはこの季節に珍しい花が咲き乱れている。音質で栽培したものを移植したのであろう。
── この花の一輪が、おれの一か月の給料に相当するかも知れない ── と思うと、ケンはさすがに卑小感に打たれた。
ライオネル・アダムズは、セントラルパークを一望の下に見下ろす居間で、ケンを待っていた。セントラルパークがまるでアダムズの私庭のように見下ろせる。借景である。
アダムズは、絹のような総皮張りのソファにゆったりと寛いでいた。年齢は五十前後、地位に相応しい厚味のある体格だが、肥満は感じさせない。髪は金髪、ひとみの色はブルー、額が広く、目と唇が意志的に引き締まっている。鼻はやや鉤鼻かぎばなである。
「ミスター・シュフタンですな。アダムズです。ようこそ。さあどうぞおかけください」
ケンを見て手を差しのばしたアダムズには、人生の成功者の自信と余裕が感じられた。
アダムズは、窓を背にして、ケンと対い合った。自然の恵みにうすいニューヨークで、外景を出来るだけ多く取り入れるために、窓をおもいきり広く取ってある。アダムズの背後に、セントラルパークを越えて、ウエストサイドの建物から、ハドゾン川のかなたのニュージャージー方面の展望が海のように広がっている。
アダムズは外光を背負っているので、逆光となって、その表情をよく読み取れない。ただ自分をじっと観察する視線だけが、痛いようにわかった。きっと彼は、初めての訪問客と対い会う時、いつもこの位置に座を占めるのだろう。
「早速ですが、ミスター・シュフタン、今日はどのようなご用件で? なにぶん分刻みのスケジュールで動いてるものですからな」
初対面の挨拶あいさつがすむと、アダムズは腕時計を見ながらうながした。十分の約束は延長しないぞというジェスッチャーであった。
ケンには、十分で用件を済ませられる自信はない。だが、ここまで入り込んでしまえばこちらのものだという肚があった。
「実は、本日おうかがいいたしましたのはウィルシャー・ヘイワードという人物について、二、三お尋ねしたいことがありまして」
「ウィルシャー・ヘイワード」
案の定、アダムズの反応は鈍かった。彼の記憶の中に、哀れな黒人の占める位置は、とうになくなっているらしい。
「もうお忘れですか。六月頃あなたの車がいた老人ですよ」
「私の車が轢いた?」
アダムズの面には、依然として反応が現れなかった。
「黒人の老人です。その時の傷が原因で死にました」
「黒人? ああおそう言えばそんなことがありましたかな」
アダムズの表情にようやくかすかな反応が現れた。彼にとって、黒人を轢いたことなど犬を轢いたぐらいにしか印象されていないのだろう。
「その時の事故の模様を詳しくうかがいたいのです」
ケンは、人間一人を轢いておきながら、まったく意識に留めていない相手に腹立たしさをおぼえながら、本題に入った。
2021/08/19
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