~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
失 踪 の 血 痕 (1-01)
東都企業株式会社の営業マン、森戸邦夫という新たなターゲットを得た小山田は、早速行動を起こした。
翌日、名刺に刷られてあった電話番号をダイヤルしてみると、それは各事務機器の販売会社であった。森戸に会いたい旨を伝えると、夕方五時過ぎにならないと帰社しないという返事である。
交換手から社のおおよその所在位置を聞いて、その時間に相手を直接訪ねてみることにした。
東都企業は港区芝琴平町の交差点の一角にあった。五階建ての細長いビルで、一階がロビーになっていて、各種ファイリングキャビネットやカードケース、ブックスタンド等の商品が展示してある。情報管理機器の販売会社らしい。
受付に古い名刺を出して、森戸に面会を求めると、客と勘違いしたのか、丁重に応接室へ通された。
朝礼ならぬ、“終礼”でも始まっているのか、上の方から、大勢の男たちの唱和が聞こえて来る。聞くともなく耳をすますと、
── 一つ、知識に足らざることなかしか、
   一つ、気力に欠くることなかりしか
   一つ, 誠意に悖ることなかりしか ──
などというかけ声が聞こえる。きっと「セールスマンの心得」のようなものを、一日の営業活動の終わりに当たって唱和し、士気を鼓舞しているのであろう。
十分ほどしてようやく“終礼”が終わったとみえて、急に騒がしい雰囲気となった。大勢の足音が階段を降りて来た。応接室のドアが開いた。
「ぼく、森戸ですが、小山田さんですか?」
二十代半ばぐらいの男が、小山田の名刺を手に持ちながら視線を向けた。いかにもセールスマンらしく、シャープな背広をまっとった細身の青年である。
「突然、お邪魔しまして。小山田です。実はちょっとお尋ねしたいことがありまして」
小山田が立ち上がって小腰をかがめると、森戸は、人なつこそうな笑顔を浮かべて、
「かまいません。仕事ですから」と手を挙げて制した。どうやら彼も小山田を客と間違えている様子である。
小山田が自分の用件を伝えようとする前に、森戸は、
「今日は一本も成契せいけいが取れなかったので、班長にしぼられました。私共の商売には波がるのですが、そんなことを会社は考慮してくれませんからね」
「実は・・・」
「私は、最近、企業秘密管理の機械部門を担当しているのですが、まだまだ軍事機密や政治機密に比べて、企業秘密の重要性に対する認識は浅いものです。企業スパイ活動が増加の一途を辿たどっているというのに、企業スパイなどというものは、小説か映画の世界のことぐらいにしか考えていません。社運を左右するようなトップシークレットや職業上のノウハウを、盗んでくれと言わんばかりに放り出している会社が多いのです。盗まれてから騒いでも遅いのに、企業に機密防衛や防諜ぼうちょうの重要性の認識が、まったくないか、不足しています」
「・・・私が本日うかがいましたのは・・・」
「こいう認識不足の中で、機密管理機器を販売するのは、大変なのです。まずその認識からして改めなければならない。会社の機密には三つのランクがあります。Aランクがカンパニーシークレットと呼ばれるもので、これが外部に漏れますと、株主に重大な損害を与えます。Bランクがコンフィデンシャルで、株主の利益を損なうと同時に会社の事業経営を阻害するものです。Cランクが・・・」
「森戸さん、この本に見おぼえがありませんか?」
べらべらしゃべりまくる相手が、のどにしめしをくれるために一息ついた時をとらえて小山田はようやく口を開く機会を得た。水明荘から借りて来た『経営特殊戦略』を突きつけて、じっと相手の反応をうかがう。」
2021/08/20
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