~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
失 踪 の 血 痕 (1-02)
「この本は・・・何ですか?」
森戸の表情に特に反応は現れない。反応を抑えている様子も見えなかった。
「これはあなたの本ではありませんか?」
もし森戸の本ならなば、彼が妻の「男」である可能性が高くなるのだ。
「えええ、僕はこんな本は読みません。この本の読み手は、僕なんかよりずっと上の人らしいですな」
「それでは、この名刺にご記憶はありませんか?」
小山田は、その頁に挟まれてあった森戸の名刺を示した。
「これは・・僕の名刺ですね」
森戸は、差し出された名刺をいぶかしげに眺めて、
「この名刺がどうかしたのですか?」
「裏をご覧ください。その裏書きは、あなたがお書きになったものですか?」
「ああ確かに僕の字ですねえ、これをどこで?」
森戸はべつの興味を持った視線を、小山田に向けた。
「この名刺をどなたに渡したか憶えておられませんか?」
「急にそう言われましても、なにしろ商売柄沢山の名刺を配りますから。それよりこれをどこで?」
「それがちょっと奇妙な場所でしてね。実は先日、ある女性といわゆる同伴ホテルへ入ったのです。すると、その部屋で前の客が置き忘れていったらしいこの本が残っていました。つい何気なく旅館を出る時持って来てしまったのです。後で頁を繰ってみると、所々に赤い傍線が引いてあります。くした本人にとっては、大切な資料かもしれないと思いまして、落とし主を探しているのです。その本の頁の間に森戸さんの名刺が挟んであったのです。裏書きから判断して、あなたがどなたかに渡した名刺だと考えました」
「なるほど、それで僕の所へいらっしゃったのですね」
「そうです」
森戸は、どうやら納得したらしい。改めて名刺に目を凝らした。
「そうだ」
森戸の目が動いた。
「わかりましたか?」
小山田は、思わず固唾かたずをのんだ。
「思い出しました。この名刺は東洋技研の新見にいみ部長に差し上げたものです」
「東洋技研のにいみ?」
東洋技研という社名は、小山田も聞いたことがある。精密機器の大手メーカーだった。
「新しく見ると書きます。機密防衛に積極的に取り組んでいる会社で、いいお得意さんです」
「その新見という部長に出した名刺ということは、たしかなのですね」
小山田は、無意識の中に声を弾ませていた。とうとう“敵”の正体の一端をつかみかけたのである。新見が、妻の男である可能性がきわめて高い。
「たしかです。シュレッダー、つまり、書類の裁断機ですね。その新規購入を検討して下さるということで、カタログを持って伺ったところ、急なご用事でお留守だったために、置き名刺をしたのです。そう言えば、この本も新見部長のデスクの上にあったような気がします」
森戸は明言した。
「その新見部長とは、どんな方ですか?」
ここまで来れば、あちは自分でも調べられるが、口の軽そうな森戸につけ込んで、引っ張り出せるだけ引っ張り出そうと思った。
「東洋技研きってのやり手ですよ、まだ四十になったばかりの若さで、取締役に抜擢ばってきされたほどです。東洋技研では、カンパニーシークレットやコンフィデンシャルが頻々と社外へ流れるのに手を焼いて、今度新たに“情報管理部”という部を新設して、本格的に機密防衛に取り組みはじめたのです。新見さんはそこの最初の部長に据えられたのですよ。最近はシュレッダーもだいぶ普及しましてね、東証一部上場会社の八十パーセント以上が採用しています。しかしそれも大型機を一、二台入れて集中処理方式を採っています。それを新見さんは、分散して一課一台から、ワンデシク、ワンシュレッダー方式に移行しようとしているのです。機密の保持は関与する人間が少なければ少ないほど完全になります。窮極には個人単位で行うのが理想的なのです。新見さんはいち早くそこに着目されて、秘密書類の分散化を図っておられます。とにかく大変なやり手です。しかし仕事の方だけでなく、女性にかけてはなかなか辣腕らつわんのようですね」
森戸はニヤリと笑った。それは連れ込み旅館で本を拾ったと言った小山田にも当てつけたようである。
小山田は、聞きたいことはだいたい引き出したと思った。
「本日はいろいろと有難うございました。早速、明日にでも本を届けてあげたいと思います」
小山田が立ち上がりかけると、
「あなたがわざわざ行かれるまでもないでしょう。僕は近々、新見部長に会いますから、その折に届けてあげますよ」
と森戸が言った。
「いや、私が届けます。新見さんにしても、同伴ホテルに本を置き忘れたことは、出来るだけ伏せておきたいでしょうから。機密保持は、個人単位が理想なんでしょう」
「いや、これは一本とられましたね。それじゃあ、僕は何も知らなかったことにしておきます」
森戸は邪気のない笑顔を向けた。
2021/08/20
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