~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
失 踪 の 血 痕 (1-03)
森戸のもとを辞した小山田は、いよいよ妻を盗んだ男と対決する時が迫ったのを悟った。これまでにあつめた種々の情報が、新見を妻の男と指し示しているだけでなく、本能的に彼が探し求める敵だということがわかった。
妻を盗まれた哀れなコキュの本能が告げるのかも知れない。
新見と対決する前に、小山田は密かに相手の偵察をした。体の特徴や年齢も、水明荘の仲居の言葉と符合している。
相手の顔を一目見た時、妻の男だと直感した。新見は文枝の好みタイプの男だった。筋肉質の横幅のあるがっしりした体格、胸幅も、胸の厚みも、小山田の二倍くらいありそうだ。若い頃にスポーツで鍛えたような体ぶりである。
角張った顔に太い眉と鋭い目があり、いかにも一癖ありそうな面構えであった。全身から男の精気がゆらめき昇っているような、男っぽさと、シャープな感覚を併せ持っている。
つまり、病弱で貧相で、妻を盗まれはしないかと、男の嫉妬しっとで常に目ばかりぎらぎら光らせている自分と、正反対の位置に居る男である。人生に敗残して、妻の稼ぎにすがって細々と生きている小山田と、人生を実力で積極的に勝ち取って行く新見は、両端に居た。
あの精悍せいかんな、男の匂いをむんむん発散させる厚ぽったい胸に抱かれて、妻は夫にも決して見せたことのない奔放な体位で官能の愉悦の中をうめきのたうちまわったに違いない。
小山田からは決して与えられなかった性の祭典の美酒の味を新見によって初めて教えられた。
── セックスってこんなにもすばらしいものだったの、ああ、私知らなかったわ ──
── 小山田との夫婦生活なんて、これに比べたら“お医者さんごっこ”みたいだわ ──
── もと乱暴にして、あなたと二人だけのお祭りの美酒うまざけさかずきの底まで飲ませて。これまでの失われた女の命を取り返すために ──
と、少しでも深く近く新見を迎え入れようとして体を開ききった妻の姿がまぶたに浮かんだ。姦夫かんぷ姦婦のすり合わせた全身から立ち昇る不倫の情事のほむらが小山田の胸をいた。
小山田は嫉妬に狂いかかる自分を意志の力で抑えて、対決前の“内偵”を行った。相手が強力なだけに、周到な準備を要する。
彼が調べたところ、新見は四十一歳、東京工大機械工学部を卒業後、東洋精工(東洋技研の前身)に入社し、三十三年に現在の妻と当時の乗務(現社長)の媒酌で結婚した。
十五歳の娘と七歳の息子がある。持ち前の才能にあくの強さに加えて、現社長に可愛がられ、そのヒキで同社随一のエリートとして、出世街道を驀進ばくしんしている。今年になって三月にアメリカ、七月にソ連へ出張したこともわかった。これも妻の新たな持ち物と符合する情況である。
ただし、女に関する噂はない。これは社長に仲人してもらっている手前、身を謹んでいるのだろうということだが、妻を盗まれた小山田には、新見の巧妙をきわめた情事の手口がわかる。情報管理部長という自分の専門職能をフルに活かして、私行を隠し通したのだ。
新見のシッポをつかむまでに、長い追跡トレースがあった。それだけ彼は細心に自分の情事を隠したのである。
すべての準備は終わった。いよいよ新見と対決する時が来た。小山田は、相手の自宅へ乗り込むか、それとも勤め先を襲うか迷ったが、勤め先の方が相手に対して脅威を与えるような気がしたので、東洋技研へ行くことにした。
2021/08/21
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