~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
失 踪 の 血 痕 (1-04)
東洋技研の本社は、麹町四丁目にある。青い遮光ガラスで壁面をよろった近代的なビルは、いかにもその社の時流に乗った威勢を示しているように見えた。
午前十時に、小山田は東洋技研の玄関受付に立った。新見が在社しているかどうか確信はない。だが、彼がいつも八時半に出社し、現在どこにも出張していなことは探り出しである。午前十時頃は、朝の会議やら、打ち合わせが一段落して、在社率の最も高い時間と踏んだ。
「新見部長にご面会ですか? お約束はいただいておりましょうか?」
受付嬢は予想していた通りの質問をした。
「べつにアポイントメントは取っていませんが、東都企業の森戸が、例の件について至急お耳に入れたいことがあると伝えて下されば会って下さると思います。お手間は取らせません」
「東都企業の森戸さんですね」
受付嬢が森戸の顔を知っていると困ると思ったが、その時は代理ということにするつもりであった。森戸の話しぶりからすると、新見にはかなり可愛がられている様子であった。森戸の名前を使えば、約束がなくとも会ってくれるだろうと考えたのである。
小山田は、応接室に通された。受付嬢は森戸の顔を知らなかったらしい。新見はすぐに来るということだった。最初の関門はどうやら突破した。小山田の全身は緊張で固くなった。
待つ間もなく、応接室のドアが開いて、新見が入って来た。
「おや、ここで待つように言ったんだがな」
そこに森戸の姿がないので、新見は首を傾げた。
「新見さんですね」
小山田は、相手の面にじっと目を据えてゆっくりと立ち上がった。妻を盗んだ男といま初めて真正面からむかい合った。近くで見ると、ますます自分より優位に見える。体格、容貌ようぼう、社会的地位、経済力、人生に対する自信、すべてにおいて、小山田より優位に立っていた。
── こいつが、こいつの体が妻を共有したのだ。自分しか知らないと信じていた妻の体を開き、その美肉の味を堪能たんのうした。いや、共有でなく、身も心も完全に奪い去ったのだ ──
新見のたくましい腕が妻のふくよかな体を抱き、その指が繊細な肉のひだもてあそび、その口が、彼女の唇と甘いみつを吸い、全身で彼女の肉体をむさぼった。
小山田は胸に中にたぎり立つ憤激を抑えて、相手の優位を跳ね返すように歩み寄った。
「私が新見ですが、あなたは?」
新見の面に不審の色がかれた。
「私は、こういう者です」
小山田は、相手の前に名刺を差し出した。
「小山田さん・・・?」
新見から不審の色はれない。とぼけているのではなく、小山田の名刺が文枝に結び付かなかったらしい。おそらく文枝とは、『カトレア』で知り合ったのだろう。彼女の店名げんじなはなおみだった。
「おわかりにならないようですね。私はなおみの夫です。カトレアの」
「あっ」
新見の中年の自信に満ちた表情が動揺した。それは十分な反応であった。小山田の放った不意の第一矢が的を射たのである。
「妻をご存知の様子ですね」
「いや、ただ時々行く店のホステスとして知っていただけです。あなたがなおみさんのご主人でしたか」
さすがに新見は直ちに立ち直って、
「それで私に何のご用事ですか?」
と問うた。
「新見さん、とぼけないで下さい。あなたが家内と秘密の交渉をもっていたことはわかっているのです」
「何を言う! いきなり訪ねて来て変な言いがかりをつけないでもらいたい」
新見は、不意打ちの動揺から立ち直ると、もちまえの自信を取り戻して、いかにも外見貧相な小山田を圧倒しようとした。
「変ないいがかりと言うのですか? それではここへ水明荘の仲居を連れてまいりましょうか」
せっかく立ち直りかけた新見の姿勢が揺れた。顔が蒼白そうはくに引き締まった。
「この本は、あなたのものでしょう」
その機を逃さず、小山田は追い打ちをかけた。目の前に突きつけられた『経営特殊戦略』を見て、新見は唇を震わせたが、何も言わなかった。まったく無防備なところを突かれて、返す言葉が出て来ない。
「この本は、あなたが私の妻と寝た水明荘の一室に置き忘れたものだ。どうだ、これでもシラを切り通すつもりか」
新見の沈黙が、文枝との不倫を認めていた。
「家内は、ホステスとして夜の勤めに出ていた。こびを売る商売だから、多少のことは覚悟していた。すべては私が不甲斐ふがいないところから起きたことだ。新見さん、あなたにも家庭がある。社会的地位もある。このことが公になったらまずいだろう。家内を黙って返してくれれば、これまでのことは不問に付すつもりだ」
小山田は、せっかくつかんだ優位を取り戻されないうちに、こちらの要求を出した。
新見に妻盗人としての制裁を加えてやりたいが、いまは彼女を取り戻すことが先決であった。
「小山田さん、申し訳ないことをしました」
新見は、さうがに頭の回転の速い男らしく、自分が言い逃れのきかない立場に追い詰められたのを悟ったようである。彼は、小山田の前にうなだれた。
2021/08/21
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