~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
失 踪 の 血 痕 (1-05)
天下の東洋技研きってのエリートとして社長の信任も厚い彼が、人妻のホステスと道ならぬ関係を結んだ事実が露われてはいかにもまずい。社長も背を向けるだろうし、家庭も崩壊する。
新見の全面降伏であった。
「申し訳ないと思ったら、家内を返せ」
「今後一切、なおみ・・・いや奥さんとは連絡を取りません。誓って交渉を断ちます。ですからどうかこのことはご内聞に」
新見は、その場に土下座しかねない姿勢で頼んだ。社ずい一のやり手も、いまは自己保身に汲々きゅうきゅうととしている。
── エリートだの辣腕らつわん家だのといっても、ザマはない ──
小山田は、妻をこれまでひかれつづけていた溜飲りゅういんが少し下がったような気がした。
「だから、妻を返せと言ってるんだ」
「私も、ただ許して貰おうとは思っていません。せめてもの罪のつぐないとして、出来るだけのことはしたいと思います」
「妻さえ返してくれればいいんだ」
「奥さんとは、今後一切交渉を断ちます」
「妻をどこへ隠した?」
「隠してなどいませんよ」
「まだシラを切るつもりなのか」
「はっきり金額を言ってもらった方が、私もやりやすい。応じられる額なら、すぐに払います」
「金額? あんた、なにか勘違いしているんじゃないのか。私は、金なんか欲しくない。妻さえ戻って来ればよいのだ」
「奥さんは、お宅に居ないのですか」
「何だと?」
この時になって、二人は互いの言葉がみあっていないことにようやく気がついた。
「このところずっと奥さんから連絡が絶えていたので、私も心配していたのです。奥さんはお宅にいらっしゃったのではないのですか」
「冗談じゃない。あんたと駆け落ちした家内が家に居るはずがないだろう」
「ちょっ、ちょっと待って下さい。なおみは・・・いや、奥さんは本当にお宅にいらっしゃらないのですか?」
「家内は居ない。もう十日も家を出たまま帰らないのだ」
「本当ですか?」
新見の面に驚愕きょうがくの色が走った。演技している様子は見えなかった。不吉な予感が小山田の胸に墨のように広がった。
「あんたが家内を連れ出したんじゃないのか」
「ちがう、私は連れ出していない。連絡が途絶えたままなので、私なりに必死に探していたのだ」
「嘘をつけ!」
「嘘じゃない。なおみとは、私が店に行けない時でも一日に一回は必ず連絡を取り合っていた。それがここ十日、店にも出勤して来ないし、私の所にも連絡がない。家に連絡を取りたくてもご主人が出るかも知れないので、電話をかけられない。しかたなく、お宅の近所を歩き廻ってそれとなく様子を探ってみたのだが、家の中に居る気配もない。私は、あなたが彼女との関係を悟って、私の手の届かない所に隠したのではないかと思っていたんだ」
新見は、もはやポーズする余裕もなく、必死に陳弁した。自己保身のためだけでなく、彼にとっても文枝の失踪はショックだったのであろう。新見の表情は真剣だった。嘘をついているようには見えなかった。
「本当に文枝の行方を知らないのか?」
「知らない。これまでこんなに長く連絡を絶ったことはがいので、私も心配していた」
小山田は事態の容易ならないことを悟った。ようやく探り出した妻の不倫の相手が、その行方を知らないとなると、いったいどこへ行ったというのか? 小山田から、新見の言葉に腹を立てる余裕も失われた。
「奥さんの立ち寄りそうな先は、当たってみたのですか?」
新見は、言葉を改めてたずねた。彼らは、今や共通の対象を追う捜索人同士であった。
2021/08/22
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