~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
失 踪 の 血 痕 (1-06)
「あんたが最後に家内にったのは、いつなんだ?」
新見が答えた日にちには、文枝がついに帰宅しなかった夜に符合していた。その言葉が真実なら、彼女は新見に逢っての帰途、消息をくらましたことになる。
「家内と最後に逢った時、何かおかしな素振りはなかったか?」
今や情事の存在をとがめている時ではなかった。こうなってみると、妻と新見との最後のデートが、彼女を追う唯一の手がかりとなるのである。
「べつに何の変わった素振りも見せませんでした。いつものように零時半ごろ水明荘で落ち合って、午前二時頃亀子ハイヤーを呼んで自宅まで送らせたのです」
「そのハイヤーの運転手は?」
「いつもの大須賀とかいう運転手を指名していますた。しかし、途中、何事もなくお宅の近くまで送ったことを確かめています」
その事実は、小山田もすでに確認してあった。すると、文枝は、ハイヤーから降りて、自宅へ帰るまでのわずかな距離の間に蒸発してしまったことになる。これまではそこに新見の意志が働いていたとばかり思っていたのだが、無関係となれば、正体不明の第三者が存在することになる。
そのXは何者か? またはたして何のために彼女を隠したのか?
新見にとっても、自分と夫の許以外に、文枝が十日間も姿を潜めてあらゆる連絡を絶つような場所を持っていたことが、意外であり、ショックであたようだ。夫から盗み取ったぐらいだから、女は自分に最も一心を傾けているという自信があった。それが自分以上に強い傾斜を預けている人物がいた。
新見の立場と心理は複雑であった。彼は他人の妻を盗んだ身でありながら、愛する女を盗まれ、犯されたような倒錯した心理に陥っていた。その意味で彼と小山田は同じ被害者の立場にいたのである。
小山田にも新見の心の内が多少わかるような気がした。そのために、これまで抱いていた反感と憎しみが少し薄れかけていた。彼らは今たがいに協力して妻と愛する女を取り返さなければならない意識になっていた。
「新見さん、あなたは、家内からの連絡が絶えてから、彼女の行方を探したと言いましたね」
小山田が言葉遣いを改めたのは、妻をさらったXに対する一種の“共闘意識”が働いたからであった。
「私なりに探してみました」
「それで何か手がかりを見つけましたか?」
「残念ながらなにも・・・」
新見は面目なげにうつむいた。二人の間から言葉が失われた。重苦しい沈黙だった。
沈黙が落ちると同時に、二人の敵対関係が復活した。新見は依然として小山田の妻をかすめ取った許すべからざる盗人であった。
その重苦しい圧力をはね返すように、新見が面を上げた。
「これが手がかりと言えるかどうかわかりませんが」
「何か見つけたのですか?」
小山田は、手がかりの有無よりも眼前の重苦しさから救われるのを喜ぶように、にいもの言葉に飛びついた。
「奥さんがカトレアを無断欠勤した翌日、お宅の近くへ様子を見に行ったのです。そして鳥居の前で妙なものを拾いました」
「何ですか、それは」
「熊の縫いぐるみなんですよ、このくらいの大きさの」
新見は両手を広げて、大きさを示した。
「熊の縫いぐるみ?」
「それが奥さんの失踪しっそうに関係あるかどうかわかりませんが、とにかく彼女が車から降りた近くに捨ててあったのが気になったので、拾って来ました」
「近所の子供が捨てたんじゃありませんか?」
「たぶんそうでしょう。だいぶ古くなった縫いぐるみです。社のロッカーに入れてありますから、いま、持って参りましょう」
新見は立ち上がった。家に持ち帰れないものなので、会社に置いたのだろう。間もなく彼が手にして来たものは、なるほど古ぼけた熊の縫いぐるみであった。幼児がその背中にまたがれるほどの大きさで、背中のビロード地は毛がすり切れて糸地が手垢てあかで黒光りしていた。
とうにお払い箱にしても決しておかしくない代物だった。
2021/08/22
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