~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
失 踪 の 血 痕 (1-07)
「鳥居前のどの辺にあったのですか?」
「道の端の草むらの中に落ちていました。鳥居に向かって右の柱の台石の近くです。よく見ないと、見過ごされる所です」
「この縫いぐるみは、いつごろからそこに捨てられてあったと思いますか?」
「わかりません。しかしご覧のように古ぼけてはいるものの、長い間野ざらしにされたものでないことはわかるでしょう。捨てられたにしても、私が拾う一日か二日前だと思います」
「なるほど。すると、文枝が姿を晦ました時とあい前後して捨てられた疑いが強くなりますね」
小山田の眼が光ってきた。
「そうです。私もそう考えたので、拾って来たのです」
「新見さん、あなたはこの熊を、家内を連れ去った誰かが残して行ったと考えたのですか?」
「断定は出来ませんが、可能性はあると思います」
「もしそうだとすれば、何のためにこんなものを置いて行ったのでしょう?」
「よくわかりませんが、置いて行ったのではなく、ついうっかり置き忘れて行ったのではないでしょうか?」
「置き忘れる? こんな大きなものを」
「何者かが奥さんを連れ去る前に、これをかかえていたとすれば、置き忘れるはずがないでしょう。しかし、私も今ふと考えついたことなのですが、何者かが熊を何かに乗せて来たとすれば・・・」
「なにかに乗せて? その何者かは来るまで来たのですね」
「そんな遅い時間に彼女をどこかへ連れて行くためには、車が必要だったのでしょう。奥さんを車に乗せる前に、シートに置いてあった熊を落としたのかも知れない」
「新見さん!」
縫いぐるみを詳細に観ていた小山田が突然、強い声を出した。
「この熊の後ろ足内側にシミのようなものが付いていますね」
新見は小山田の指す箇所に目を向けて、
「そう言われてみると、なにかのシミのようですね。気が付きませんでした」
全体に垢で黒光りしているので、垢なのかシミなのか判然としないのである。
「このシミは血じゃないでしょうか」
「何ですって!」
意外なことを言い出した小山田に、新見は改めて縫いぐるみに視線を向けた。
「見ただけではわからないけれど、もしこれが血、それも人間の血だとすると・・・」
小山田は、何事かを暗示するかのように新見の顔を凝視した。
「小山田さん、あなたはこのシミを奥さんの血ではないかと考えているようですね」
新見は、小山田の暗示の重大さを悟って、表情を引き締めた。
「ふと家内の血ではないかという疑いが頭をかすめたのですが、いったんそう思うと、そうに違いないというような気がしてきました」
「もしこれがなおみの血だとすれば、どういうことになりますか?」
新見からも、彼女の店名を翻訳する余裕が失われている。
「新見さん、率直に聞きますから、隠さずに答えて下さい。あなたは文枝に対して自信がありましたか?」
「自信というと?」
突然、質問の方向を変えられたので、新見はすぐに反応できない。
「文枝があなたを愛していてという自信です」
「・・・・」
「隠さずに言って下さい。今はそれをとがめ立てするつもりはありませんから」
「それでは正直に申し上げます。彼女は私を真剣に愛していました。私も決して単なる浮気のつもりではありませんでした。互いに社会のさまざまなルールに縛られて、結婚は出来ないが、そのかせの中で、精一杯愛し合おうと誓っていたのです」
「その文枝が、あなたに一片の連絡もせずに突然姿をくらましてしまうことが考えられますか?」
「考えられません。だから心配でここのところ夜もよく眠れないのです」
「最後のデートの時、次に逢う約束をしましたか」
「しました」
「次のデートはいつでした?」
「三日後。いつもの時間に水明荘で落ち合う約束をしました」
「その約束もすっぽかして、彼女は突然、蒸発してしまったのです。ということは、彼女の蒸発は、その意志によるものではなかったと考えられませんか?」
「彼女の意志ではないと?」
「そうです。家内は愛するあなたにすらなんの連絡もせずに姿を消したのです。女がそんなことをするはずがない。現に、それまでは毎日のように連絡を取り合っていたのでしょう」
新見は、小山田の言わんとするところを探るような目をしてうなずいて、
「すると、なおみは何者かに、その意に反して誘拐ゆうかいされたとでも」
「そして現場には血痕けっこんらしいものを付けた熊の縫いぐるみが残されていた。何者かは車でそこまで来た可能性が高い。家内を車内に引きずり込むはずみに、熊が落ちた。熊と家内がその時入れ替えになったとすれば、熊に家内の血が付く機会は、その時しかない。ということは、家内が車内へ引っ張り込まれた時は、すでに血を流していたことになる」
小山田は、いま自分自身驚くほど頭がえて、推理の車が回転するのを感じた。もちろんこn推理は、「熊のシミ」が、文枝の血痕であるという仮定に基づいてのことである。
2021/08/22
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