~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
断 絶 の 疾 走 (1-02)
「くだらないっでしょう。私って、出生そのものがくだらないのよ。親にも歓迎されずに生まれて来たのよ。あなたのようにサラブレッドのお坊ちゃんとは違うわ」
「おれがサラブレッドの坊やかお。とんだお笑ぐさだ。おふくろは、おれのおかげでスターになれたんだ。そしておやじは、おふくろのスターの名前を利用している。家族みんなが利用し合ってる」
「いいじゃないのよ、しあわせならば」
「歌の文句のようなことを言うなよ。しあわせなんて生まれた時から縁がなかったね」
「あなたは、本当の不幸がどのようなものか知らないのよ。あんまりしあわせなんで、不幸ぶってるだけなんだわ」
「おれのしあわせは、遠足に千円貰うような種類のものだったん。親は、金品で子供のまわりを固めれば、親の責任を果したと思ってやがる。いま住んでるマンションだって、この車だってそうだ。みな“遠足の千円札”と変わりねえんだよ。きみは親が間違えて産んだと言ったが、おれの場合は、産むべきじゃなかったね」
「だから、私たち同類ってわけ?」
「そうだ。難しく考えることはない。親がその気なら、こっちもそのつもりにんればいい。親から毟れるだけ毟り取って復讐ふくしゅうしてやるんだ」
「そんなことが復讐になるの?」
「なるとも“全国母親教”の教祖、八杉恭子の息子が途方もないフーテンだとは、いい気味じゃないか」
「そんなことなんにもならないわよ。あなたがフーテンだなんて、私たちの仲間しか知らないもの。本当に復讐するためには、人目をくような派手なことをやらなければだめよ」
「・・・・」
「お母さんやマスコミの前で模範息子の演技をしているかぎり、復讐なんて、とても出来ないわね」
「・・・・」
「どうしたの? 急に黙っちゃったわね、要するにあなたのやっていることなんて、お坊ちゃんがちょっとすねているだけなのよ。親のてのひらの上で暴れまわってるだけよ。この車も、マンションも、親の掌なのよ。どこまで走って行ったところで、あなたは親のかせから逃げられないわ。お釈迦しゃか様の掌の上で暴れた孫悟空そんごくうみたいに」
「おれがサルだというのか」
「大してちがってないでしょう?」
「ちくしょう!」
ちょうど車が直線道路の端へさしかかっていた。恭平は、吸いかけの煙草をダッシュボードにもみつぶすと、ギラギラした目を前方へ据えた。
路子にかきたたれらた感情が、アクセルを踏む足に移った。いったん七十ぐらいに落ちていたスピードがね上がるように急加速される。スピードメーターの針がぐんぐん上る。加速度で身体がシートに押さえつけられる。エンジンの騒音が急に高まった。
GT6MK2は、押さえつけられていた機能を限度いっぱいに絞り出そうとしていた。すべての制限を解かれて鋼鉄のハイエナのように走りはじめた。エンジンは、ハイエナの 咆哮ほうこうであり、ミッションは疾駆する脚のバネの弾音である。風がうなった。それは血に飢えた獣のような唸り方だった。
めて!」
路子が叫んだが、恭平はエンジンの音にかき消されて聞こえない振りをした。
「そんなことをしてもなんいもならないわよ」
路子は叫びつづけた。恭平は耳もかさず、加速しつづけた。拘束のために視野が狭くなった。闇を切り裂く光芒こうぼうの前方を黒い物体が突然、横切ったように見えた。
恭平は、慌てて急ブレーキを踏んだ。急すぎて踏力がそのまま足に感じられない。急激な制動を受けた車体は、その無理を全身で抗議するように悲鳴をあげた。路面とタイヤみ合って、夜目にもわかる白煙を吹いた。車の重心が前輪に移り、軽くなった後輪がブレーキロックを起こした。
トップヘビーになった車のしりが左に引かれた。あっという間に車体はすさまじいスピンを起こした。踏みかえてロックをレリーズする余裕もない。完全に方向のコントロールを失った車は、氷上を滑るように、死をいっぱいにはらんだ暗黒の中へ吹っ飛んで行った。
車体がバラバラに分解しそうな激しい重力の移動の中で、車の悲鳴に二人の悲鳴が加わっっていた。
2021/08/25
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