~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
断 絶 の 疾 走 (2-01)
車は、恐ろしいスピンを五、六度繰り返してようやく停まった。車が停まった後も、二人は、しばらくその場から身動き出来なかった。恐怖の凄まじい握力によってわしづかみにされたために、委縮いしゅくした心臓がしばらくの間、鼓動を止めてしまったようであった。
先に我に返ったには、路子である。
「ねえ、何かに当たったんじゃあない」
彼女に話しかけられても、恭平は茫然ぼうぜんとしている。
「ねえ、しっかりしてよ、停める前に何か黒いも物が前をかすめたでしょ、たしかに何かに接触した感じがあったわ」
「接触したって・・・」
恭平がようやくつぶやいた。
「なに言ってんのよ、あんたが運転していたんじゃない。早く確かめなければ」
路子に叱咤しったされて、恭平はのろのろと身体を動かしかけた。衝撃のためにボディがゆがんだのか、運転席側のドアが開かない。
「こっちから降りるのよ」
いち早く車外へ降り立った路子が叫んだ。恭平は助手席を伝ってようやく外へ出た。
前部バンバーやラジエーターグリルが少し歪んでいる。明らかに何ものかと接触した痕跡こんせきであった。あのスピードで接触された相手は、さぞひどい状態に陥っているに違いない。
相手が犬や猫のたぐいであればよいが、もし人間だったら・・・、スピンをしたときおは別の戦慄せんりつが恭平の背筋を走り抜けた。
「こちらになにかいるわ」
車体の後方を探していた路子が叫んだ。つづいて恐ろしい言葉が追いかけて来た。
「人間だわ、人間のをいたのよ」
恭平は予測した最悪の事態の陥ったことを悟った。それは路肩から少し外れた草むらの中に、ぼろのかたまりのようにうずくまっていた。
「女の人だわ」
遠方から来るうす明かりの中に目をこらすと、ぼろは落下傘らっかさんのように見えた。その間から白い脚が二本、ねじれるように突き出ている。若い女らしい。
「ひどい怪我だわ、髪の毛が血にひたしたみたい」
路子の声が震えた。
「まだ生きている」
恭平は虫の息ながら、まだ相手が生きているのを認めた。いや、死にきっていないと言った方が正確であろう。
「それじゃ、医者に見せなければ」
「救急車を呼ぶにしても電話がない」
野末にまばらなが散っている。寂しい場所だった。車の通行も絶えている。
「ねえ、どうするの」
路子の声は、完全に動転していた。恭平は被害者の体を抱き起こした。
「ねえ、いったいどうするつもりなのよ」
「とにかく病院まで運んで行こう。足の方を持ってくれ」
二人は、被害者の体をリアシートにかつぎ入れた。
「早く連れて行かないと、死んじゃうわ」
しかし病院へ運んだところで、助かる保証はない。また被害者の損傷次第では、生命を救えたところで、身体が元どおりになるかどうかわからない。
いずれにしても、恭平の責任は重大である。暴走の挙句、起こした人身事故である。言い逃れは出来ない。
灯の密集している方角に車を向けながら、恭平は自分が直面している事態の重大さを痛いように感じた。
2021/08/26
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