~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
断 絶 の 疾 走 (2-02)
「死んでるわ」
リアーシートの気配をうかがっていた路子が悲鳴のような声をあげた。
「何だと?!」
「この人、もう息していないわよ」
「まさか」
「本当よ、あなた、自分で確かめてごらんなさい」
恭平は、いったん車を停めて血浸しになった被害者に顔を近付けて観察した。
「ねえ、死んでるでしょう」
恭平は茫然とうなずいた。これで絶望的状況がしかと確認されたのである。
「病院より、警察へ行かなければ」
路子が譫言うわごとのようにつぶやいた。その言葉によって我に返ったかのように、運転席に戻った恭平は、車を発進させた。急な加速で発進した車は、タイヤを鳴かせながら急転回した。
「どこへ行くつもりなの?」
灯の集まっている方向に背を向けて走りだしたので、路子はびっくりした。路子の答えず、恭平は闇がいっそう濃くかたまった方角に向けてスピードを速めている。
「こんな方角に警察があるの?」
「いったい何を考えてるの?」
「返事をして!」
目を前方に据えて、ひたすら車を進める恭平に、路子は不吉な予感をおぼえていた。
「あなた、まさか!」
路子は自分の予感を言い当てるのが恐ろしかった。
「君は黙っていてくればいいんだ」
恭平がようやく言葉を洩らした。
「おかしな考えは止めて、とても逃げきれないわ」
「やってみなければわからないだろう」
「じゃあ、本当に逃げるつもりなのね」
「誰も現場を見ていた者はいないんだ。死体さえどこかに隠してしまえば」
「止めて、そんな恐ろしい考えは。今のうちに届け出れば軽い罪ですむわよ。人を轢いて、死体を隠したりしたら、殺人よ」
「だったらどうだというんだ。見つからなければいいんだ。そして絶対見つけられない場所に隠すよ」
「そんなこと出来っこないわ。今のうちに引き返すのよ」
「いやだね、こんな真夜中、若い女がうろうろ歩き廻っていたのが悪いんだ。向こうが勝手にぶつかってきたんだよ。そんな責任を取らされるのは、ごめんだね」
「あなた狂ってるんだわ」
「もう引き返せない。君だって共犯なんだぜ」
「私が、共犯ですって?」
「そうさ、同じ車に乗っていたんだ。君が運転していたかも知れないんだぜ」
「それどういう意味?」
「どちらがハンドル握っていたか、見ていた者はいないと言うことさ」
卑怯ひきょうだわ」
「おれだってそんな卑怯者になりたくない。だから黙っておれに従いてくるんだ」
“共犯”という言葉が、路子の抵抗にとどめを刺した。彼らの向かう先を、ますます濃密な闇が閉塞へいそく している。山が近づいて来たのか、なにものか巨大な影が行く手に立ちはだかっているような闇の暗さであった。
2021/08/26
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