~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
断 絶 の 疾 走 (3-01)
一瞬の不注意によって、途方もない事故をき起こしてしまった。だが恭平と朝枝路子にとって魔の陥穽かんせいは、その事故の後に底のない暗い口を開いていたのである。
事故発生と同時に被害者を救護するために全力を尽くせば、それは事故の域に留めることが出来た。
相手を傷つけ、あるいは死に至らしめたとしても、あくまでも過失である。過失犯故意犯では、罪質に大きな開きがある。
恭平の場合、自分をまもろうとする本能が誤った方向に動いた。被害者が死亡したのを確かめた時、恭平は灯が群がる明るい方向に背を向けて、暗い方へ暗い方へと車を走らせた。路子の制止や忠告に耳をかさず、ひたすら闇の屯する方角へ向かって走った。
それはこれから先の彼の人生を暗示するような方向であった。暗夜、目撃者のいなかったことが、魔の陥穽への落下に拍車をかけた。
彼らは光をゴキブリの避けながら、山地の奥へ向かって走った。人里から離れた山林の中へ被害者の死体を埋めた時、二人はもはやどう逃れようもない暗渠あんきょの底へ落ち込んだのを知った。
恭平の決意をひるがえすことが出来ないと悟った路子は、死体の隠匿いんとく 作業を手伝った。
奥多摩山地の暗い林の中であった。自動車修理用の工具で、土を掘り返すのは、つらい作業だった。だがここまで来てしまった以上、もう引き返せない。地獄にちたからには、せめて地獄における安全を確保しなければならなかった。
獣や野犬に掘り起こされないように、穴は深く掘らなければならない。作業のための灯はつけられない。こずえ ごしにのぞくわずかな星の光だけが頼りの作業である。穴の深さは彼らの犯した罪と、絶望の深さに比例していた。
ようやく埋め終わった時、暁が近づいていた。東の方角に弾む暁の気配は、彼らにとって危険信号であった。一刻も早くこの場から離れなければならない。人里離れた山地と言っても、人の入り込んでいない保証はないのだ。
それをよく承知しながら、作業を終えた彼らは、しばらくぐったりして、その場を動けなかった。ようやく放心からめると、恭平は激しく路子を求めた。路子も拒まなかった。
彼らは死体を埋めたばかりの土の上で狂ったように互いをむさぼり合った。二人は一体となった時、身も心も共犯者になったのを感じた。
これから始まる終わりのない逃亡の生活の中で、互いだけがただ一人の道連れであるのを確かめるように、二人は相手の体を確かめ合った。
事件はまったく報道されなかった。言葉通りの闇から闇に葬られてしまったらしい。
恭平らは、被害者が死んだのに動転して、その身許みもとも調べずに埋めてしまった。持ち物も一緒に埋めた。したがって、彼らは被害者が誰だか知らない。ただわかっているのは、水商売風の若い女ということだけである。それも、接触時のショックで、死体がむごたらしく傷ついていたので、顔もよく見ていなかった。
「最近は蒸発人間が多いので、急に姿が見えなくなっても、大して怪しまれないんだろう」
戦々恐々としていた恭平は、数日しても何の報道もされないので、いくらかホッとしたようである。
「家族が行方を探しているかも知れないわ」
路子が、まだ気を抜くのは早いと戒めるように言った。
「家族もいないアパートの独り暮らしだったかも知れないよ」
「そんなこと、こちらの希望的観測というものだわ。死体が見つけられないかぎり、家族が捜索願を出したくらいでは、報道されないわよ。こうしている間も、家族が私たちの後を追っているよ考えるべきね」
「素人が追いかけて来たところで、どいういことはないさ。警察だって捜索願くらいじゃ動かない。誰もおれたちのやったことを知らない。そのうちに死体は土の中で骨になってしまう。びくびくすることはないんだ」
恭平はしだいに強気になってきた。車は、惜しかったが路子のすすめに従い、少しずつ解体して、廃車にしてしまうことにした。車体が頑強だったので、損傷はわずかだったが、万全を期したのである。解体後、エンジンその他の使える部分パーツを合成して“合成車カスタムカー”をつくるつもりだ。これならどこから見ても足はつかない。
初期の不安と緊張がようやくゆるみかけたとき、路子が戦慄せんりつ的なせ物に気がついた。
「あなた、このごろ熊が見えないようね」
「くま?」
「あなたのペットの熊の縫いぐるみよ。どこへ行くにも手離さなかったじゃない。いったいどこへやっちゃったの?」
「そう言えば、最近、見当たらないなあ」
恭平は、今頃になってようやく気が付いた表情をした。これまで罪の意識と緊張で、ペットのことをすっかり忘れていた。
2021/08/27
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