~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
断 絶 の 疾 走 (3-02)
「最後に見かけたのは、いつごろだったかしら」
なにげなく言いかけて、路子は顔をこわばらせた。
「ねえ、あの夜、熊を車に乗せていなかった?」
「あの夜」が、事故を起こした夜を意味するのはもちろんである。
「まさか」
恭平の面に、急に不安の影が揺れた。
「まさかじゃないわよ、よく思い出してちょうだい。あの夜、熊を乗せていなかったかどうか」
「たぶん、乗せていなかったと思うけど」
「たぶんや駄目よ。あなたはマスコットのように、熊を持ち歩いていたわ。私は、車の中にあったような気がするわ」
「それが失くなっているとすると・・・」
呑気のんきに構えている場合じゃないのよ。車の中にあったものが、失くなっていれば、どこかに落としたんだわ」
「「君は、熊をあすこへ落としたというのか?」
「可能性はあるわ。あの夜、途中で停まって車の外へ降りたのは、あの二か所だけなんだから」
「二か所?」
いた所と埋めたところよ。あんな場所に熊を落としたとすれば、大変な証拠を残したことになるわ」
「でも、あの夜の前か後に失くしたかも知れないじゃないか」
恭平は何とか楽観的に考えようとしていた。
「ということは、あの夜も可能性があるということよ」
今や二人とも蒼白そうはくになっていた。忘れかけていた恐怖がよみがえり、心臓をわしづかみにしていた。
「どうしよう?」
だらしなくも恭平の声は、震えていた。女の方が冷静であった。
「まだ現場に残っているかも知れないわ」
「今から捜しに行ったら危険じゃないか?」
「危険ではあるわね。でも、まだ何の報道もされていないところをみると、あの女が車にかれたと疑っている人間はいないと思うわ。それに事故現場がどこかわからないはうよ。あの女とぶつかったのは、路肩ぎりぎりの所だったし、女が倒れたのは、草むらの中だったから。少しぐらい血が流れたところで、泥の中に吸われてしまうわ。車が頑丈だったので、車体は少し凹んだぐらいよ。ガラスも割れなかったし、破片もほとんど落ちなかったわ。あの場所には私がそれとなく行ってみるわ。あなたは、死体を埋めた付近をハイカーの振りをして探してちょうだい。こちらは死体さえ見つけられていなければ、大丈夫よ。少しでも危ない気配があったら、近づいてはだめよ」
「おれ一人で大丈夫かな」
恭平は心細げな声を出した。
「なに言ってんの、あんたがいた種じゃないの。二人より一人の方が目立たないわ」
「おれは、場所をよくおぼえていないんだ」
「あなたは、本当にお坊ちゃんね、しかたがないわ、一緒に行ってあげる。あんたさえシャンとしていれば、こんな危険はおかさずにすんだのよ」
「すまない」
主導権を完全に路子に握られた恭平は、彼女の意のままに動く傀儡かいらいでしかなかった。
だが、彼らの捜索もむなしく、熊はついに発見できなかった。
「やはり、どこか他の場所へ落としたんだ」
恭平は早くも楽観へ傾いた。
「安心するのは早いわよ。私たちが捜しに行く前に、だれかに拾われた可能性があるじゃないの」
「あんな汚れた縫いぐるみを、だれが拾うもんか」
「あなたって、本当に天下泰平に出来てるのね、私たちを追いかけている人間が拾ったかも知れないのよ」
「君は心配性なんだよ。いや臆病おくびょうすぎるんだ。最悪の場合を想定して、たとえ、あの熊がおれたちの追跡者の手に入ったとしても、どうやっておれの持ち物だということがわかるんだ。熊に持ち主の名前なんか付いてないし、熊とおれを結び付けるものはなにもない。また、現場に熊が落ちていたところで、必ずしも事件に関係ない。あんなぼろがどこに落ちていたっ不思議はないよ」
「だから、あなたはおめでたいの」
路子は嘲笑あざわらった。
「なに、おれがおめでたいだと!?」
と恭平が憤然としかかるのへ
「そうよ。あの熊が母親代わりだって、あなたの口から言ってたじゃないの。いいとしをして、まるで幼児みたいに熊を抱えて歩いていたから、あの持ち主があなただということは大勢の人が知ってるわ。証拠物件として付きつけられたら、逃げられないわよ」
路子は容赦なく言った。
「同じ縫いぐるみなんか、いくらでもある」
と恭平は反駁はんぱくしたが、その口調には力がなかった。
「とにかく失くなったものは、しかたがないわ。でもこれから油断は禁物よ。いついかなるときでも、追いかけて来る人の足音に耳を澄ましているのよ」
路子はくぎを刺した。
2021/08/29
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