~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
過去をつなぐ橋 (1-01)
ジョニー・ヘイワードの殺害事件の捜査は膠着こうちゃくしていた。ニューヨーク市警から送られて来た「キスミー」なりキーワードは、結局、何の事かわからなかった。
事件が発生してから、二十日間の第一期は、たちまち過ぎた。この間休日を返上し、足を棒にしての捜査にもかかわらず、何の収穫も得られなかった。すべての仮説は打ち消され、事件は迷宮入りの模様を呈しかけていた。
「ちくしょう、アメリカのやつら、てめえの国の人間が殺されたのに、キスミーとは人を馬鹿にしてやがる」
横渡刑事は、猿のような顔をますます赤くして毒づいた。だいたい彼には、異国の人間がはるばる日本までやって来て死んだのが、おもしろくなかった。
「なにもこんな狭い国へわざわざやって来て死ななくとも、世界に死に場所はどこにだってあるだろう。それでなくとも、多発する事件に追いまわされているのに、外国人の面倒までとても見きれない」
というのである。
「しかし、ガイシャも好きこのんで殺されたわけじゃないでしょう」
河西刑事がやんわりと反駁はんぱくした。彼は捜査一課の刑事というより、まるで銀行員のようなタイプである。服装にいいかげんな男たちの多い刑事部屋で、夏でも背広をきちんと着て、下のボタンまでもかけている。きちんとしすぎていて、かえってヤボッたく見えるほどだ。
「おれは気に入らないね。だいたいおれはガイジンってのは嫌いななんだ。特にアメリカやヨーロッパのやつらは、物質文明の水準では、日本に追い抜かれているのに、先進国面をしやがる。自国のニューヨークやパリも知らない外国の田舎っぺが東京へいきなりやって来て、内心びっくり仰天しているくせに、精一杯、先進国ぶって虚勢を張っている。てめえらのほうが、いろいろな面においてよっぽど後進国なんだ」
「ヨコさん!」
「日本人がニューヨークで殺されたって、こんな丁寧な捜査はしてくれなかっただろう。日本人は外国人と見るとへつらいすぎるんだ。だからなめられるんだ」
捜査の行き詰まりが、飛んだ八つ当たりになりそうな気配に、那須班の面々は苦笑した。
しかし横渡がいくら毒づいたところで、捜査は少しも進展しない。初期捜査の気負いが疲労に圧迫されて、捜査本部の空気は重くるしく澱んでいた。
そんな時、一人の男が捜査本部を尋ね得来た。男は中野区に本社のある『共栄交通』というタクシー会社の運転手で、「野々山高吉」と名乗った。
ちょうどその場に居合わせた棟居むねすえ刑事が野々山に応対した。
「実はもっと早くお届けしなければいけなかったんですが、ちょうど田舎に帰っていまして、新聞を読まなかったもんですから」
野々山は、初めからひどく恐縮していた。五十前後の実直そうな男である。
「届けるとは、どんなことをですか?」
棟居は、ある種の予感を覚えながら、たずねた。捜査本部には、さまざまな情報がもたらされる。だがその大部分はガセネタであった。
いま棟居は、野々山の来訪に、釣り竿ざおに伝わる魚信のような手応てごたえを感じていた。
「実は、九月十三日、私が羽田から新宿の東京ビジネスマンホテルまで送ったお客さんが、どうも、ロイヤルホテルで殺された黒人らしいのです」
野々山の言葉に棟居は全身をかたくした。
「それは間違いありませんか?」
「たぶん間違いないと思います。黒人の顔はみな同じ様に見えますが、あの人は、色もそんなに黒くなく、東洋人に近い感じでした」
「どうしてもっと早く届けなかったんですか?」
「それが田舎へ帰っていたものですから。しgばらく帰っていなかったので、会社に無理言って、まとめて休暇をもらったのです」
「どうして今頃になって届けて来たのです?」
「会社の食堂で、偶然古い新聞のじ込みを見ましてね、それに載っていた写真が私が送った客にそっくりだったのです」
「よく来て下さいました。我々はあなたを探していたのですよ」
「申し訳ありません」
「いや、お礼を申し上げているのです。それで先ずお伺いしたいのですが、新宿のホテルには、あなたが連れて行ったのですか? それとも彼がそのホテルに行くように求めたのですか?」
「お客からそこへ行くように命じられました」
「すると、彼は初めからそのホテルを知っていたのですね」
「そのようです。でも、ホテルの名前を知っていただけで、そこへ行くのは初めての様子でした」
「ホテルの名前をどうして知ったのか言いませんでしたか?」
「いいえ、口数の少ない人で、ほとんど口をききませんでした」
「東京ビジネスマンホテルへ行くように英語で言ったのですか?」
「いいえ、たどたどしいながら、日本語で話しまし。多少の日本語はわかる様子でした。降りる時も、アリガトウ、オツリハ、イラナイ、と日本語で言いました」
「その他に何か話したことはありませんか?」
「いいえ、乗る時と降りる時以外は、黙りこくったままでした。なんとなく陰気な感じの人でしたね」
「他に何か気が付いたことは?」
「べつにありません」
野々山の情報は、それまでのようだった。とにかく彼のおかげで、ジョニー・ヘイワードが初めから東京ビジネスマンホテルを目指していたことがわかった。だがこれまでの捜査によって、そのホテルにジョニーとなんらかの関係を持っていそうな人物は、まったく浮かび上がっていない。
2021/08/30
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