~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
過去をつなぐ橋 (1-02)
ジョニーはどこでビジネスマンホテルの存在を知ったのか? どこかで偶然に知ったホテルの名前を護符のようにささげ持って、初めて訪れた異国における心細さの中を脇目もふらず「ただ一つのホテル」へ向かって直行したと単純に考えてよいのだろうか?。
今の段階で断定は下せない。棟居は礼を言って、野々山を引き取らせようとした。
すると野々山はおずおずと何かを棟居の前に差し出した。一冊の本のようである。
「何ですか、これは」
棟居は本と相手を半々に視線を向けた。
「これが車の中に置き忘れてあったんです」
「これをジョニー・ヘイワードが忘れて行ったと言うのですか?」
「いえ、あの客の物かどうかはっきりしないのですか、シートと背もたれの間にもぐっていたのを、それから三人目か四人目に乗った客が見つけてくれたのです」
それはおそろしく古びた本であった。表紙はすり切れ、歳月のあかに汚れて書名が読めないほどである。一応洋装本だが、製本も粗末で、とじつけバインディングも崩れている。うっかり手に取ると、バラバラになりそうなほどいたんでいる。
ジョニー・ヘイワード下車した後三人目か四人目の乗客がみつけてとなると、はたしてこの本が彼の物かどうかわからない。あるいは、発見者の直前の乗客の物かも知れないし、シートとクッションの間にもぐっていたというから、ジョニーよりずっと前の客が残して行ったのかも知れない。
その時、本の古さから連想されたものがあった。それは、清水谷しみずだに公園で発見された古い麦わら帽子である。あれもこの本と同じくらいに古ぼけていた。つばはぼろぼろに破れ、頭には穴があいていた。麦わらが古い繊維のように色褪いろあせて、手に持っただけで灰のように崩れそうな頼りない感じであった。
昼さかげんが、ちょうどこの本に似通っている。棟居にはその“古色の暗号”が気になった。
「シートと背もたれ間は、毎日しらべるのですか?」
「その日の乗務が終わった後で、必ず検査します。忘れ物や客のポケットから転がり落ちた小物は、たいていその中にもぐり込んでいますので」
「前の日の検査では何もなかったのですね?」
「早番と遅番の一日おきの乗務になっていますが、何か忘れ物があれば必ず前の乗務者から引継ぎがあります。私も乗務前に念のために自分で検査べるのですが、何もありませんでした」
これで、本はジョニーが野々山の車に乗り込んだ日に置き忘れられたことが確定したわけである。
「そんな以前の遺失物がどうして今頃まであったのですか?」
「すみません。遺失物は貴重品以外は一週間ごとにまとめて、所轄の警察へ届けることになっているのですが、食べ物とか、あまり価値のないものは、適当に処分してしまいますので。まあそのへんのところは警察も大目に見てくれますんで」
遺失物や置き去り物を遺失物法に忠実にのつとっていちいち届け出られては警察の方で困ってしまう。船、車、建築物等の占有者(責任者)は、遺失物法によって、警察になりかわって拾得物を保管することが出来るが、食べ物や価値のうすいものは、責任者の裁量によって適当に処分してしまうのである。
「それでその本は?」
「ちょっとおもしろそうだったものですから、私が家に持ち帰ってそのまま忘れていたのです。決して・・・その悪意があったわけじゃありませ」
野々山は、横領罪にでも問われないかと恐れている様子であった。棟居は苦笑して、
「詩集のようですな」
貴重品でも取扱うように頁お開いた。
西条八十さいじょうやその詩集です」
「西条八十? あの作詞家ですか」
棟居は流行歌の作詞家として記憶していた。
「西条八十は歌謡曲の方で名を売っていましたが、ロマンチックな幻想的詩風では他の追従を許さない優れた詩人なのです。早稲田わせだの学生時代には日夏耿之介こうのすけらと同人雑誌を刊行したり、後にフランスに留学して、イェーツやメーテルリンクと交遊し、フランス象徴詩を深化させた幻想的詩風を樹立しました。また『赤い鳥』に優れた童謡詩を数多く発表して、北原白秋はくしゅうと並び称された人です。私はこの人のデリケートな甘いセンチメンタリズムが好きなのです」
野々山は思わぬところで文学的造詣ぞうけい披瀝ひれきした。彼は西条八十のファンだったのだ。それで詩集を持ち帰ったのであろう。ファンだけにその詩集は彼のとって価値がある。それ故に“占有離脱物横領罪”に問われないかと恐れている様子であった。
もしこれが、ジョニー・ヘイワードの忘れ物であれば、彼はなぜ日本の詩人の詩集を持っていたのか? 棟居はまた新たな謎を一つ追加されてように思った。
詩集は、戦後間もなくの刊行によるものであった。古い筈である。すでに二十数年の歳月が経っているのだ。所有者の名前は記されていなかった。
ともあれ、『西条八十詩集』はジョニーによってもたらされた可能性がある。そしてしれがあるかぎり、決して無視できない証拠資料であった。
棟居は、詩集を領置した。
2021/08/30
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