~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
過去をつなぐ橋 (2-01)
棟居は、小説や詩集にあまり興味がない。まったく無関心と言ってよかった。要するにそれらは想像力のたくましい人間が言葉をもてあそんでつくり上げた虚構の世界ぐらいにしか考えていなかった。
現実の凶悪犯罪者と格闘している身には、とても虚構の世界でたわむれている余裕はなかった。
棟居は、野々山から思いもかけず『西条八十詩集』を手に入れたので、この詩人について少し調べてみる気になった。本庁の図書室にジャンル別の百科事典があった。その中の「文学」を引き出して、「西条八十」の項目をいた。
─── 西条八十さいじょうやそ(1892─1970)詩人。東京牛込生まれ。早稲田中学、正則せいそく英語学校をへて早大英文科、東大国文科に学ぶ。早中時代の英語の恩師、吉江喬松たかまつから文学的影響を受け、生涯の方向を決定する。1919年(大正八年)処女詩集『砂金』を刊行、幻想と洗練された語句、甘美な感傷で認められた。21年早大講師となるのと前後して、訳詩集『白孔雀しろくじゃく(1920)や詩集『見知らぬ愛人』『ろう人形』(1922)を刊行、23年ソルボンヌ大学に留学、16世紀以降のフランス詩の研究に没頭。マラルメ会のメンバーとなり、バレリーら象徴派の詩人と交遊、帰国後は早大教授となり、象徴詩運動の旗手として活躍。『西条八十詩集』(1927)・『美しき喪失そうしつ(1929)・『黄金の館』(1944)などを出す一方、『詩王』『白孔雀』『蝋人形』『ポエトロア』を主宰し多くの詩人を育成。また『赤い鳥』の童謡詩運動にも中心的役割を果し、『西条八十童謡全集』(1924)があり、さらに6000曲に及ぶ作詞を通して歌謡界に君臨する。第二次大戦後は、詩集『一握いちあく玻璃はり』のほか、『アルチュール・ランボ研究』(1967)などがある。61年芸術院会員───<ジャンルジャポニカ「文学」より>
と紹介されてある。
「西条八十と、ジョニー・ヘイワードか」
百科事典から目を離した棟居は、宙をにらんだ。この日本の生んだ優れた抒情詩人ト、ニューヨークのスラムから来た黒人青年の間にいかなる関係があるのか?。
棟居は、最初ざっと目を通した詩集の頁を一葉ずつ丹念に繰りはじめた。まだこの詩集が、ジョニーによって運ばれて来たと確信したわけではない。だが、棟居には予感のようなものが働いていた。
詩集が発行されたのは昭和二十二年となっている。その出版社はとうに失われていたが、昭和二十二年といえば、今から二十数年も以前である。それはジョニーが刺された清水谷公園で発見された麦わら帽子の古さに符合する。
ジョニー・ヘイワード ── 麦わら帽子 ── 西条八十、この三つをつなぐ橋は何か? それが、詩集の中に隠されているかも知れない。
橋を見つけた後で、詩集を捜査会議に提出するつもりであった。
棟居は項を丹念に繰った。戦後出まわった粗末なセンカ紙であるうえに、年月が経っているので、よほど慎重に取扱わないと、とじつけがくずれてしまう。
残りの項が薄くなるにつれて、棟居の目に失望の色がたまってきた。これまでのところ丹念に見て来たつもりだが“橋”のようなものは見つけられない。
── やはり詩集は無関係の乗客が置き忘れたものだろうか?。
項を繰るにつれて失望への傾斜が深まって行く。あます項はもういくらもない。繰る項がなくなったとき、絶望は確定するのだ。
最後の数項めに来た時、棟居の目に火が点じた。項を繰っていた手が宙に停まったまま固定した。最初その文字が目に飛び込んで来た時、棟居は目の前を閃光せんこうが走ったように感じた。
── 母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?
   ええ、夏碓氷うすひから霧積きりづみへ行くみちで、
   渓谷けいこくへ落としたあの麦稈むぎわら帽子ですよ ──
「あった!」
棟居は思わず声を出した。麦わら帽子が『西条八十詩集』の中にあったのだ。
2021/08/31
Next