~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
過去をつなぐ橋 (2-03)
そこで東都外語大学の米語発音学の権威、宮武敏之みやたけとしゆき教授の教えを乞うことになった。
宮武教授は、
「アメリカ語と一口に言っても、あれだけ広大な国家ですから、地域や階級によって使う言葉も発音も千差万別です。地域別にごくおおまかに分けますと、標準米語スタンダード東部米語イースタン南部米語サウザンの三つになります。ニューヨークのはスタンダードですが、イースタンもかなり入り込んでいます。それに人種の坩堝メルティングポットと呼ばれる寄木モザイク都市で、世界のさまざまな国から来た移民が、それぞれのお国なまりの英語で話していますので、一律に論じることは出来ません。おたずねのr音の省略ですが、kirizumiの『r』やstwar hatの『r』が脱落して発音されなくなるということは、米語発音学上ありませんね」
「ありませんか」
新たな突破口の発見者として、教授への確認役を命じられた棟居は、失望の色を露骨に浮かべた。
「ある音が、次に来る音の影響を受けて脱落し、発音されなくなることはあります。それは一個の単語の中で起こるケースもあれば、同じ段落の中で隣り合っている単語において生じる場合もあります。例えばaskedやstoppedのような破裂音や破擦音がある場合、『k』や『p』が脱落して耳には『aestアスト』や『statスタト』と聞こえるのです。次に鼻音や重複音があるときも脱落しますが、おたずねのケースにはあてはまりません」
「あてはまりませんか」
棟居は、ますます肩を落とした。ようやくここまで辿たどり着いただけに、自分の身体を支えるのがつらいほどの失望に打ちのめされていた。
「もともと英米語における『r』音は、存在主張の強い音で、むしろ他の音に影響を与えるほうなのです。ときにはr音の要素がまったくないにに、母音ではじまる次の語との間に子音のrが入ることがあります。例えば <それを見た> という意味のsaw it <彼と私> のhe and me が <So:rit> <hi:rendmiヒーランドミー:> と聞こえるのです。もちろん悪い発音ですが」
ないrが聞こえるというのでは、まったく逆である。やはり「キスミー」と「キリヅミ」を結び付けるのは無理なのか。
「ただ、r音が省略される可能性がまったくないわけではありませんよ」
教授は、棟居のあまりに気落ちした様子に、慰めるように言った。
「えっ、あるのですか」
棟居の面にたちまち喜色がよみがえった。あるならあると最初から言ってくれればよいのにと思った。
「ただし、学問的には認められていませんがね」
「いや、学問のことなんかどうでもいいのです。要するにそういう発音のしかたがあることが、確かめられればいいので」
「あなたは、学者としての私の意見を聞きにみえたのではないのですか?」
宮武教授は、棟居の学問を軽んずるような発言に少し気を悪くした様子である。
「は、はい、まことにその通りでありますが、ただそのう、つまり学界には認められていないが、そういう発音があるかどうか専門家としての先生のご意見を拝聴いたしたく」
棟居は慌てて言いつくろった。自分の軽率な発言によって、教授の協力を失ってはならなかった。
「来語の母体である英語は、地域別のほかに、階級別にもその発音は千差万別です。我々が学校で学ぶ英語は知識階級の標準英語です。学校英語を学んだ人間がコックニイやブルックリンの英米語を聞いたってわかりゃしません。特にニューヨークの下町には、アイルランド、北欧、東欧、イタリア、スペイン、プエルトリコ、ユダヤ、南部から来た黒人等がそれぞれのブロックを構えて雑居していますので、まさに言葉の坩堝るつぼの感があります。当然、英語が、各出身国流に変形されます。日本語のてやんでえ、べらんめえ式の大胆な省略が行われます。特にスペイン語系の人々は、r音をふるわせる特徴があります。しかし中には、自分が、スペイン系の人間であることを隠そうとして、意識してr音を弱く発音するか、省こうとする人がいます。くせを意識するあまり、反対行動に出るのと同じです」
「すると、そういう人間ならば、ストロー・ハットをストウハ、キリズミをキヅミと発音することはあり得るわけですね」
棟居の声は無意識のうちに弾んだ。ジョニー・ヘイワードはスペイン系のスラム、イーストハーレムに住んでいたのである。
「あり得ますね」
教授はうなずいた。「キヅミ」ならば、「キスミー」と聞き間違えられる可能性が十分にある。ここに捜査本部は「霧積」という新たな対象を得た。
ジョニーは、霧積温泉を目的に来日した可能性が強くなった。おずれにしても、それは捜査陣が決して見過ごせない新たなポイントであった。
── 霧積にジョニー・ヘイワード殺害事件の謎を解くキイがあうにちがいない ──
棟居は、礼もそこそこに教授のもとを辞したのである。
2021/08/31
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