~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
忘れじの山宿 (1-01)
上野から信越線の列車に乗った棟居と横渡は、午後一時ごろ、横川駅へ着いた。紅葉の最盛期は失したが、周囲の山々に残る紅葉が美しい。霧積へは、ここから車で「六角ろっかく」という所まで入って、一キロの山道を歩くか、あるいは横川から歩き通すしかない。どちらにしても、六角から一キロは歩かざるを得ないのである。
駅前へ出たが、客待ちしているタクシーの姿は見えない。駅前はせせこましく建て込んだ裏通りの雰囲気で、田舎の駅前の白々としただだっ広さは、まったく感じられない。
家々の屋根にテレビのアンテナが林立している。テレビはこんな田舎町のたたずまいすら規格化してしまったのである。
駅前の割り込める限りのスペースは、駐車の列によって埋められて、それがせせこましさを余計に強めている。
だが、その車の列の中にもタクシーらしい姿はない。平日なので、降りた客は彼らと、数人の地元の人間だけであった。構内タクシーの事務所があったので、聞いてみると、車は一台しかなく、生憎あいにく、高崎の方へ出張っているということであった。
霧積まで歩くと、四時間ぐらいかかるそうである。
「霧積へ行きなさるかね。だったら旅館へ電話すれば、マイクロが迎えに来てくれるよ」
事務所に居た男が親切に教えてくれただけでなく、電話までしてくれた。
「お客さん、運がいい。いまちょうど帰りの客を乗せて、バスが下っているところだそうだ。あと十分でこっちに来ますよ」
事務所の男の言葉に棟居と横渡はほっとした顔を見合わせた。いくら歩くのが商売でも、四時間も山道を歩かされてはかなわない。
間もなく、霧積温泉の名前をつけたマイクロバスが来た。数人の若い男女が降りて来る。
「東京の横渡さんと棟居さんですか」
中年の運転手が二人の姿を見て声をかけてきた。二人がうなずくと、
「東京の方から連絡を受けてお迎えに上りました。さあ、どうぞ」
と言いながら、二人が手に提げていた小さなバッグを取った。
「そんな軽いものは、自分で持つよ」
横渡が柄にもなく恐縮した。捜査本部を出る時、那須警部が「駅前に車が来ている筈だ」と言ってくれたのは、このことだったのである。
マイクロバスは快適なスピードで走った。しばらくの間は信越線に並行して国道十八号線を走る。五分ほど行くと、小さな宿場町へ入った。いずれの家も軒が低く深い。時々古くくすんだ出格子を付けた家が見える。江戸時代の宿場町がよみがえったような家並みであった。国道の行く手に魁偉かいいな形をした岩が突兀とっこつとそびえている。
「ここが坂本町です。昔は女郎がいたそうです」
そこは、国道十八号線(旧中仙道)に沿って発展した典型的な宿場町であった。棟居は出格子の暗い奥から宿場女郎にいまにも手招きされるような錯覚をおぼえた。
家並みの切れかかる少し手前でバスが停まり、数人の小学生と一人の中年の男が乗り込んで来た。男は、地元の人間か、都会から来た客か判然としない。運転手と親しげに挨拶したが、服装は都会的である。小さな革かばんを一つ手にしている。
そこは、ちょうど霧積温泉案内所の前であった。子供たちは、奥地の方から温泉バスで通学しているらしい。
「古い家もほとんど改築されて、いまは少なくなりましたよ」
昔ながらの宿場町を熱心に見ていた棟居に新たに乗り込んで来た乗客が気さくに声をかけてきた。そう言われてみると、古い家並みの中に新しい家がかなり混じっている。
軒高と間口がほとんど統一されているので、古い宿場の雰囲気がとどめられているのだ。
バイパスが通ったせいで、車の姿もない。軒の低い家並みを両側に連ねて、真っ直ぐに走る人影のない一本の白い道。
「宿場として栄えていたころは、にぎやかなものだったらしいのですが、いまはすっかりさびれてしまいましてね。古い家もほとんどなくなって、もう昔の面影はありませんよ」
男の言葉は寂しげであった。やはり地元の人間らしい。棟居が、街並みに趣を感じたのは、古格せいではなく、滅びゆく町の無気力な静けさのためだったのだろうか。
「家の間口がみな同じでしょう。ここは幕府の命令でつくられた宿場なのです。街道の両側の土地には限りがあるので、おかみが本陣と脇本陣以外は、なべて一間半としたそうです。この辺一帯の家は、昔は旅館と女郎屋と風呂屋と、馬方でした」男は説明調になった。
「いまは、ここの住民は何をしているのですか?」棟居は興味を惹かれてたずねた。
時々思い出したように車が、一、二台走り去る街道には、犬の姿も見えない。まさに無人の町のおもむきが深い。
2021/09/02
Next