~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
忘れじの山宿 (1-02)
「それがよくしたもので、碓氷峠が出来てから、みんな峠で食ってます」
「峠で食う?」
「鉄道ですな。駅へ勤めたり、保線の仕事をやったり、お間この町の住人はほとんど鉄道関係者です」
話しているうちに、バスは坂本を抜けた。
間もなく国道とわかれて、信越線のガードを潜る。子供たちが車窓の外を指さして猿が居ると騒いだ。道路沿いの枯れた草山に一個の黒い点が見えたが、確かめる前にみるみる遠ざかった。
このあたりまで五、六十匹群れをなして出て来るとうことであった。舗装が切れて、快適に走っていた車が、急に激しく揺れはじめた。
右手にかなり大きなダムが見えて来た。
「霧積ダムです」
幅三百二十メートル、高さ六十七メートル、起工したからすでに四年で、間もなく完成予定だと、運転手が説明してくれた。まだ貯水ははじめられす、コンクリートの堰堤えんてい傲然ごうぜんと見下ろす乾いたダムの底には、いずれは水没する廃屋や雑木林が寂し気に散っている。
自然を人工的に取り切ったいかにもわびし気でいて、不調和な光景である。
「ここから揺れますから、しっかりつかまっていてください」運転手が注意した。山気が急に深まった。
「もう少し早ければ、紅葉がきれいでしたなあ」
運転手が我が事のように残念がった。
「まだ十分綺麗じゃないか」
横渡が車窓から彩りの残る尾根を見上げた。都会の幾何学的な建物ばかり見ている目は、自然があふれている場所へ来ると、どの一角を眺めても洗われるような気持がする。
深山の趣はないが、たたなわる優しい山並みに挟まれた山峡の風情がある。
それは都会生活に疲れた心身を柔らかく包んでくれるような穏やかな自然であった。
バスは、川に沿ってさかのぼる。山の斜面をまばらな雑木林が埋めている。
「運転手さんは、ここに長いこといるのかね?」
横渡が、そろそろ聞き込みをはじめた。
「松井田の方の製糸工場に勤めていたんですが、景気がよくないので、一年前からこちらに移って来ました」
「一年前か」
それではあまり古い事は知らないなと、刑事はうなずき合った。
「以前は、ここは車が入らなかったんですか?」今度は棟居がたずねた。「麦わら帽子の詩」は「渓谷の道を歩いていて、風に飛ばされた」のである。もっともそれは「碓氷から霧積へ行くみち」となっているから、この道ではなかったかも知れない。
「車道が通じたのは、昭和四十五年です。それ以前は、横川から歩いたもんです。旅館も金湯館一軒きりありませんで、湯治の客が一か月も二か月も逗留とうりゅうしていましたな」
「いまは何軒もあるんですか?」
「二軒だけです。もっとも同じ経営で、車道の終点に霧積館というのがあります。金湯館の新館ですな」
「新館はいつ出来たのです?」
「昭和四十五年です」
「金湯館まで車は入らないのですね?」
「終点からホイホイ坂という山道を三十分ほど歩いてもらいます」
「三十分も山道を歩くのか」
横渡がうんざりした表情をした。
「昔は、四時間も歩いたものです。けれど、最近のお客さんは、三十分歩くのも億劫おっくうらしくて、山登り以外はみんな新館に泊まってしまいますね」
話しを交しているうちに、車はますます山気深まる奥へ入って来た。
バスの右手に沿っていた渓流が、左手に移ると、車はヘアピンカーブを何度か反復して高度を上げてきた。渓流が足下に深く沈んで、深山の趣が強くなった。
やがて、カエデ、ナラ、シデ、ブナ、クリなどの雑木林に囲まれた盆地の一角に、二階建ての赤い屋根と青い壁の建物が見えてきた。マイクロバスはその玄関に横付けになった。バスから降りると、谷間の底で、展望はまったくない。霧積館は、旅館というより、寄宿舎のような建物である。
玄関を入ったところに、土産物やソファを雑然と並べたロビーがある。中年の女が愛想よく出迎えてくれた。
2021/09/04
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