~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
忘れじの山宿 (1-05)
「その間に、黒人が来た可能性はありませんか?」
ジョニー・ヘイワードには来日歴はない。だがどこかでヘイワード自身は来日せずとも霧積となんらかのかかわりを持ったはずだ。彼の関係者がかかわりを持つことも出来る。
「さあ、たぶんないと思いますよ、そういう珍しいお客さんが来れば、主人は必ず話すはずですから」
「宿帳は、どのくらい保存するのですか?」
「だいたい一年間とっておいてから処分してしまいます」
棟居は女将と話しているうちに、徒労の色が濃くなって来るのを感じた。しかしまだ主人が残っている。彼が女将の知らない場面において、ジョニーとかかわり合っているかも知れない。
「ご主人は、いまどちらに?」
「主人は、いま上の方に、旧館に居ますが、呼びましょうか?」
「いや、私たちがうかがいます。どうせ旧館の泊めてもらうのですから。ところで、失礼ですが、女将さんは、ここに古くからおられるのですか?」
女将の記憶になければ、彼女がここに来る以前か、不在の間にショニーあるいは関係者がかかわりを持ったことも考えられる。
「私が主人と結婚しましたのは、昭和四十年で、それからずっとこちらにいますけど」
「その間、黒人の客は来なかったのですね」
「来なかったと思います」
「外国人は、どこの国の人が来ましたか?」
「やはりアメリカ人が一番多いですね。基地の兵隊さんが多いです。それから学生さんです。アメリカの次は、フランス、ドイツ、イギリスの方がみえました」
「女将さんがこちらへ来られる前、つまり終戦後ずっとこちらに居られた方はいませんか?」
「主人の両親が、まだ元気で金湯館に居ます。古いことはしゅうと夫婦に聞いていただければわかると思いますよ」
「ご主人のご両親が健在?」
「はい、二人とも七十を越えていますが、元気です」
「ご主人のご両親は、ずっとこちらにおられたのですね?」
「ええ、先々代から経営を引き継いでから、ずっとこの地を離れません」
「先々代?」
「先々代は舅のおじだそうです。私もその辺のことになるとよく知りませんので、舅に直接たずねられたほうがいいでしょう」
女将の話しぶりから、いま霧積の当主は、彼女の夫で、舅は旧館の方で隠居している様子である。二十四歳で死んだジョニー・ヘイワードが七十歳を超えた老人のさらに先代とかかわりを持ったとは考えられない。
「この詩集に見おぼえがありますか?」
棟居は、質問の鉾先ほこさきを変えて、ジョニー・ヘイワードの“遺品”の『西条八十詩集』をしめした。
「ああ、先日、この詩について問い合わせて来られたのは、お客様ですか」
女将は納得にいった顔をした。
「そうです。実はこの詩集が、黒人の持ち物の中にありましてね。彼は、日本の霧積へ行くと言って、アメリカを出たのです」
「キスミー」から霧積を導き出したプロセスは、いま彼女に説明する必要はない。
「この詩が、黒人、ジョニー・ヘイワードという名前ですが、彼に、大きな関係を持っているのにちがいないのです。詩は霧積をうたっています。日本へ来た目的も霧積にありました。彼は、いったい霧積に何をしに来ようとしたのか? その秘密が詩の中にあるように思うのですが、女将さんには、この詩について心当たりはありませんか?」
「この麦わら帽子の詩は、西条八十先生が子供の頃、お母さん一緒に霧積に来られた時の想い出を詩ったものだそうですが、主人の父がたまたま先生の詩集の中に見つけて、うちのパンフレットや色紙に刷り込んで使ったと聞いています」
「いまそのパンフレットはありますか?」
「それが、これはかなり以前のパンフレットや、色紙に使ったので、いまはないのです」
「それは残念だな」
棟居が失望の色を浮かべて、
「その色紙とパンフレットは、いつごろまで使ったかわかりませんか?」と問うた。
「主人か舅が知っていると思います」
「この詩が、ジョニー・ヘイワードにどんないわれを持っているのか・・・・もちろんご存知ないでしょうね」
黒人の姿を一人も見かけたことがないと言っている女将が、知る筈はないと思いながらも、棟居は、未練がましくたずねた」
「霧積というのは、このあたりの地名だな」」
横渡がふと何かに思い当たった顔をして、「そうだとすると、ジョニーの言った霧積は、必ずしもこの霧積温泉に限られないかも知れない」ひとり言のようにつぶやいた。
ジョニーの“遺品”の『西条八十詩集』の中から「霧積」の地名が出てきたために、「霧積温泉」と結び付けて考えてしまったが、それは「霧積一帯」も含まれているのである。
「霧積に人間が住んでいるのは、ここだけですよ」
女将は、横渡のせっかくの着想を打ち消した。霧積温泉以外に霧積に人家がないとなると、ジョニー・ヘイワードの目指した霧積は、この場所の他に考えられなくなる。
それとも、「霧積の人間」ではなく、その「土地」の何かとかかわりを持っているのだろうか? だがもしそうであれば手操り出しようがなくなってしまう。
「それは、以前からこのあたりにはこの温泉以外に人は住んでいなかったのですか?」
棟居は横渡の質問を引き継いだ。
「前に湯の沢という里がありましたけれど、もう今は誰も居なくなってしまいました」
「ゆのさわ? それはどのあたりにあったのですか?」
「坂本から来る途中ダムがあったでしょう。あの少し上流です。近く水没するので、今はほとんどよそへ行ってしまいました」
「それは、いつごろのことですか?」
「三年ほど前から廃村のようになっています。でも湯の沢は、霧積とは呼びませんよ」
結局、女将からはジョニー・ヘイワードと霧積の間のいかなる繋がりも引き出せなかった。こうなると、早く旧館の方へ行きたくなる。
「どうもいろいろご面倒なことを伺いまして、これから金湯館へ行ってみます」
「それでは、ご案内しましょう」
「それには及びません。どうせ一本道でしょう」
「ええでも、私も向こうへ行くついでがありますから」
女将は気軽に立ち上がっていた。
2021/09/06
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