~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
忘れじの山宿 (2-01)
金湯館までは、山林の中の細道を伝う。日はすでに山かげに落ちて、夕映えが空を染めていた。七百メートルほどだらだら登ると、小さな峠に達して、旧館の金湯館が視界に入った。二人の刑事が気息奄々えんえんとしているのに、女将が呼吸一つ乱さないのはさすがだった。新館よりもいっそう奥まった感じの山あいに、ひっそりとそのふるい建物はかたまっていた。薄い煙と湯気が建物から昇り、上層の冷たい空気に冷やされて、水平にたなびき、谷あいの湯宿の風景をいっそう柔らかいものに仕立てている。空から落ちかかる残照がもうすっかり日かげになった谷あいを夢幻的なほの明るさの中に浮かび上らせていた。
古びた母屋の前へ出ると、水車が回っていた。
「都会のお客さまはこんなものを喜ばれるので、まだ残しています」
女将が説明して、旧館の母屋の玄関へ入った。戸外は明るいが、家の中にはすでに灯が点いている。いかにも朴訥ぼくとつな感じの中年の男が彼らを迎えた。
それがこの宿の主人だった。主人と女将は、少し離れた場所で一言二言ささやきあった居たが、主人がすぐに恐縮した姿勢で、
「これはこれは遠い所をようこそおいでなんしょ。まず一っ風呂浴びて、汗を流してください」と中へ招じ入れた。
これらの建物は、新館に比べて、貫禄ものだった。黒くすすんだ柱は、それぞれ勝手な方向へ傾きかかり、障子しょうじふすまとの間にが入るほどの隙間が出来ている。廊下の板などは一枚一枚反り返って、足を踏み下ろす度にすさまじいき声を出す。
「これは、うぐいす張りどころじゃなくて、にわとり張りdな」
口の悪い横渡が、早速、宿の主人の手前もはばからず辛辣しんらつなことを言った。
「はあ、こちらも建て替えなければと思っているのですが、なにせ新館に金がかかりましてな」
主人がますます恐縮した。
「いや、このほうがいいよ。このほうが私らには趣があっていい、なんていうか、風格があるな。年代物のワインのような味が建物にある」
横渡が苦しいほめ方をした。だがたしかにこの世から完全に切り放されたようなひなびた雰囲気は、申し分ない。まさに行き暮れて辿たどり着いた山宿の風情であった。
「こんな情緒のある山宿が、東京から数時間の所にまだ残っていたんですね」
棟居も感慨を込めた声で言った。こんな旅は久しく忘れていた。自分が時間を十年も逆行して来たよな気がした。東京と同じ大地の延長に、こんな静かで柔和な一角があるのが信じられない思いである。
本館の廊下の端からいったん外へ出て、飛び石を伝って、たった一戸だけ独立している離れ屋へ通された。六畳ほどの和室で、窓を開けると、かけひを豊かな水が水車の方角へ走っている。
部屋へ通ると、すでに外は暗くなっていた。いっとき空を彩った残照が消えて、谷あいの底から墨のような夕闇が湧き出している。主人が部屋の灯を点けると、戸外は完全な夜景になった。部屋の中央に炬燵こたつがしつらえてある。
「いま家内がお茶をもってまいりますで」
と主人が頭を下げて、下がりそうだったので、棟居が手をあげて、呼び止めた。
「いや、お茶よりも先にご主人にちょとおたずねしたいことがあるのです。先刻、女将にも伺ったことなのですが」
旅館の内部の気配から、他に泊り客はいないと踏んで、いま一気に聞き込みを押し進めようとした。
「はあ、そのことならいま家内からちょと聞きましたが、私もどうもおぼえがありませんでなあ」
「この男なのです。ともかく写真を見てください」
棟居は、主人の手許てもとにジョニーの写真を押しつけた。
「心当たりがありませんですなあ。こういうお客さんが来れば、目立つのでよく憶えているはずなんですが、どうも心当たりがありません。ただ父が古いことを知っておりますので、お食事のすんだころ、ここへ連れてまいります」
棟居は、そのまま一気に聞き込みをしたかったが、相手の都合も考えて、勧められるままに、まず温泉へ入ることにした。浴場は、離れとは反対方向の母屋のはずれにある。長い渡り廊下を伝って行くと、美味うまそうな食べ物の煮炊きのにおいが鼻腔びこうに漂って来て、とたんに腹の虫が啼いた。
2021/09/06
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